『小梅堤』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第101回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第104景となる「小梅堤(こうめつつみ)」。向島の行楽客が往来した、かわいらしい名の村を描いた1枚である。

160年前のスカイツリー付近に広がっていた田園の風景

「小梅堤」とは隅田川東岸、向島の小梅村を流れる曳舟(ひきふね)川沿いのこと。この川は農業用水路で、その終点近くの東岸から北西方面を望んだ絵だ。広重は現在でいえば、東京スカイツリーがある墨田区押上1丁目の南西端辺りに立っている。付近に「小梅」という地名は残っておらず、曳舟川も埋め立てられた。「とうきょうスカイツリー」駅北側の「曳舟川通り」は、この用水路の跡地である。

川幅や橋の大きさの変化で遠近感を付け、曲線を描く上流部が近景の木々の間を延びていく美しい構図だ。木の下で子犬と遊ぶ子どもや、欄干のない質素な橋、地平線近くまで広がる田んぼから、のどかな農村の雰囲気が伝わってくる。しかし、名所と呼べるような寺社や建造物、史跡などは見当たらない。広重自身、『絵本江戸土産』の「小梅の堤」で、「させる勝地にあらず(たいした景勝地ではない)」と述べている。

広重作『絵本江戸土産』7編にある「小梅の堤」(1857頃刊 国会図書館所蔵)は、対岸からの風景。「風流で閑静な土地なので、老人が隠居するのに適した場所だ」と結んでいるので、還暦を迎えた広重にとっては魅力的な場所だったかもしれない
広重作『絵本江戸土産』7編にある「小梅の堤」(1857頃刊 国会図書館所蔵)は、対岸からの風景。「風流で閑静な土地なので、老人が隠居するのに適した場所だ」と結んでいるので、還暦を迎えた広重にとっては魅力的な場所だったかもしれない

では、なぜ「名所江戸百景」に加えたのか。当時の地図で小梅村の位置を確認すると、北に曳舟川、東には亀戸へと向かう北十間(きたじっけん)川、西には隅田川とつながる源森(げんもり)川、南には深川まで真っ直ぐ延びる大横川と、4つの川が集まる。水路の要所であることは一目瞭然だ。

小梅村の北西端には、雨乞い祈祷や、三井越後屋の守護社として知られた三囲(みめぐり)稲荷社があり、その北には桜餅で有名な長命寺もある。曳舟川沿いの秋葉大権現は、火伏せ祈願と名庭園で知られるなど、行楽客に人気の神社仏閣が集まっている。小梅村の南には、業平(なりひら)天満宮があった南蔵院も見える。平安時代『伊勢物語』で、都鳥の歌を詠んだ在原業平が、隅田川の渡し船の事故で亡くなった人を弔うために築いた塚が起源とされるため、門前の橋は「業平橋」と名付けられた。

尾張屋版『江戸切絵図』(1856年刊、国会図書館蔵)の「安政新刷 隅田川向島絵図」より、北を上にして浅草・吾妻橋(左下)から小梅村付近を切り抜いた。広重の望んでいる方向を赤い矢印、現在のスカイツリーを水色で示した。曳舟川は北に向かって描かれるが、実際には北東(右上)に向かっている
尾張屋版『江戸切絵図』(1856年刊、国会図書館蔵)の「安政新刷 隅田川向島絵図」より、北を上にして浅草・吾妻橋(左下)から小梅村付近を切り抜いた。広重の望んでいる方向を赤い矢印、現在のスカイツリーを水色で示した。曳舟川は北に向かって描かれるが、実際には北東(右上)に向かっている

近くには、料亭「小倉庵」や「名物梅飯茶屋」といった有名店も記されており、船を利用した向島の行楽客はこの辺りを拠点としたと思われる。絵をよく見ると、川沿いの道にも茶屋が数軒あり、人の往来も少なくない。手前の橋を渡る2人の女性は、羽織と赤い裳裾(もすそ)の出立ちから、料理屋へと向かう芸者であろうか。にぎわう料亭ではなく、のどかな農村風景を描きながら、さりげなく行楽の拠点だと気付かせる秀逸な一枚である。

晴天の冬の日に広重が筆を取った地点に立つと、川はアスファルトの道路になり、マンションが立ち並ぶ。往時をしのべる風景ではなかったので、スカイツリーの南側に移動すると、北十間川のゆるいカーブが広重の絵と符合した。タワーの足元や東京スカイツリータウンから、「現代の東京名所」という主張がファインダー越しに伝わってきたので、シャッターを切った。

関連情報

小梅、押上・業平橋駅、東京スカイツリー

小梅村付近には、古くから梅の木が多かったそうだ。8反(約800平方メートル)の梅園があったことに由来するとの説もあるが、広重の時代の名所絵などで、その梅園を取り上げたものを知らない。元々は砂州のような場所で、明暦の大火(1657年)以降に埋め立てられた。土地の成り立ちから「小埋め(こうめ)」が「小梅」に転じたとする異説もある。浸水被害が多発したため、民家の少ない田園地帯だったようだ。近くに業平天満宮があったことから、「天満宮=梅」という連想もあったかもしれない。

梅飯茶屋の近くには「小梅銭座(ぜにざ)」(現・業平1丁目)があり、一文銭の寛永通宝を鋳造していた。裏面には「小」の字が刻まれ、「小梅銭」とも呼ばれたので、庶民にはなじみのある村名だった可能性もある。

明治維新後、江戸から東京に変わると町域が拡大。小梅周辺には1902(明治35)年に東武鉄道「吾妻橋」駅、1921(大正元)年に京成電鉄「押上」駅が開業し、水運拠点から鉄道拠点へと変貌した。昭和に入り、吾妻橋駅は「業平橋」駅(現・とうきょうスカイツリー駅)に改称。戦後は都営地下鉄や東京メトロとの相互乗り入れも進み、駅ホームの地下化も進んだ。そして、地上に残った広い敷地が、東京スカイツリー建設へと結びついていく。「させる勝地」ではなかった場所が、東京を代表する観光地へと発展したのだ。

小梅村は1889(明治22)年の町村合併で、向島小梅町と向島小梅瓦町になった後、関東大震災後の再編では小梅1〜3丁目に変わる。そして、1960年代の住居表示実施に伴い、墨田区向島と押上に編入され、小梅の文字は地図から消滅した。それでも、小学校や通り、店などの名に、今でも小梅が使われている。

先日、仕事で同席した高名な落語家さんと出身地の話になった。師匠は地名ではなく「小梅小学校です」と言われたので、すぐに「スカイツリーの近くですね」と返すと、「よくご存知で」と嬉しそうにしていた。土地の人は今でも、「小梅」の響きに深い愛着を持つようだ。ちなみに、古地図には「小ムメ」と記されていることが多く、江戸っ子は「こんめ」と発音していたという。なんともかわいらしい響きである。

作品の撮影場所から見上げた東京スカイツリー。隅田川の西から見る姿とは別物の迫力ある姿だ
作品の撮影場所から見上げた東京スカイツリー。隅田川の西から見る姿とは別物の迫力ある姿だ

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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