『江戸百景目録』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第120回<最終話>

歴史

歌川広重亡き後、人気図案師だった梅素亭玄魚(ばいそていげんぎょ)が制作した『名所江戸百景』の目録。約2年半にわたって刊行された全118景を、美しい挿絵と共に春夏秋冬に振り分け、組み絵として見事に成立させた。

大作を締めくくった幕末随一のグラフィックデザイナー

直下型の安政江戸地震は、1855(安政2)年10月2日に発生。マグニチュードは7程度、震度6強以上あったと推測され、江戸市中は壊滅状態となった。

余震が続く中、不安を抱える庶民の間では、惨状を伝える絵草紙や瓦版が売れまくる。震災後の社会を風刺した内容や単なるうわさが多く、幕府は販売を禁止したが、闇ルートで広く出回ったようだ。特に、大ナマズが登場する「鯰絵(なまずえ)」がブームとなる。当時、地震の原因は大ナマズだと信じられていたので、それを退治する絵などが人気を呼び、お守り代わりにする人もいたらしい。

『鯰をおさえる恵比寿』(1855年頃、作者不明、国会図書館蔵)。地震直後から、大ナマズを描いたものや、擬人化したナマズが登場する絵が出回った
『鯰をおさえる恵比寿』(1855年頃、作者不明、国会図書館蔵)。地震直後から、大ナマズを描いたものや、擬人化したナマズが登場する絵が出回った

そんな状況を見かねてか、「名所絵で右に出るものなし」とうたわれた歌川広重が、版元の魚屋栄吉と手を組み、翌56年2月から刊行したのが『名所江戸百景』シリーズだ。力強く復興する江戸の町をテーマに、美しくも大胆な構図で名所を描き、暗い印象の絵に食傷気味だった人々を魅了する。新作が発売すると、江戸っ子が競うように買い求めたという。

56年夏には大型台風が江戸を襲うが、復興ムードは続き、少しずつ活気を取り戻していく。名所江戸百景は100枚目に到達しても、人気が衰えずに継続。さすがに110枚で打ち切ろうとしたようで、58年7月に摺(す)った111枚目『芝神明増上寺』と112枚目『鉄砲洲築地門跡』は、題箋(だいせん、短冊状の題名部分)に『江戸百景余興』と記されている。しかし、翌月発行の全3枚は『名所江戸百景』に戻る。終わりを惜しむ声が大きかったのか、広重と版元も、もう少し継続しようとしたようだ。

その直後の9月6日、広重は他界する。江戸にまん延するコレラに感染したのだが、翌10月には『市ヶ谷八幡』『上野山した』『びくにはし雪中』の3枚を発売。二代広重はまだ襲名前であり、初代が残した下絵を弟子が仕上げたという名目だが、それだけ人気シリーズであった証明であろう。

そして59年、名所江戸百景の最後を飾る目録が制作される。担当したのは、当時の出版界で大活躍した梅素亭玄魚。その肩書は浮世絵師に始まり、装丁家や図案師、文字を清書する筆耕など多岐にわたる。今でいえば、凄腕のグラフィックデザイナーといったところだろうか。この時期、玄魚が関わっていない書物は“最上級品ではない”とされるほど、飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。

画題は「一立斎広重 一世一代 江戸百景 東叡山広小路 魚屋栄吉梓」。縦長になり過ぎないようにしたのか、「名所」の文字を省いたようだ。コンセプトは「四季」で、月明かりが照らす花鳥風月で表現している。上部に散りばめられた梅が春を感じさせ、中央では夏の季語「鵜(う)」が、中秋の満月の前を飛ぶ。一番下には冬の風物詩、菰(こも)をかぶった水仙の花が登場する。全118景の画題も、春霞や扇子、紅葉、雪を想起させる枠に収めた。長い画題を短く編集しているので、玄魚はコピーライターの素養も持っていたのだろう。

目録からも、いかに広重が江戸の町を元気付けようとしていたかが伝わる。明るい春の作品が圧倒的に多く、その数は冬の景の倍以上だ。玄魚は春の項だけは2つの枠を重ね、バランス良く仕上げている。目録完成後、二代広重が『赤坂桐畑雨中夕けい』を手掛けているが、二代目の落款の絵は、その1枚のみ。続編は望まれたものの、やはり初代の絵でなくては『名所江戸百景』ではないという意見があったのだろう。そのため、現代の学者や愛好家も、目録を含めて全119枚とする場合と、全120枚とする人に分かれる。

“江戸本来の姿”の復活を誰よりも願った広重亡き後、日本では急速に西洋化が進む。浮世絵には西洋式軍装をした武士や外国人が登場し、明治期に入るとは煉瓦建ての建物、鉄道や人力車が描かれるようになる。絹糸や陶磁器、茶葉などの輸出が盛んになると、大量の浮世絵も欧米へ流出してしまう。そんな時代の変化を意識しながら、目録の英語版を作成し、連載最後の作品とした。

●関連情報

玄魚、広重、名所江戸百景、浮世写真家

表具師の家に生まれた梅素亭玄魚は、幼少期から非凡な才能を発揮したという。書画骨董店で働いた経験も持ち、数々の名品の中で感性を磨いたとされる。特に筆耕としては、早くから活躍したようだ。

出版界では知らぬ者がいない存在で、歌川派3巨頭の広重と三代豊国(初代国貞)、国芳とも親しく交流した。安政江戸地震の前年には、広重と三代豊国の合作「双筆五十三次」で目録を制作。『名所江戸百景』の『佃しま住吉の祭』でも、大幟(のぼり)の中に玄魚の名前を見ることができる。「住吉大明神」の文字を手掛けたようだ。

『双筆五十三次 目録』(1854年 国会図書館蔵)は、宿場名の木札を並べたようなデザイン。広重、三代豊国の名の下に、玄魚の名前も記される
『双筆五十三次 目録』(1854年 国会図書館蔵)は、宿場名の木札を並べたようなデザイン。広重、三代豊国の名の下に、玄魚の名前も記される

実は鯰絵も、玄魚が流行らせたらしい。禁制の絵なので落款などはなく、作者は不明なのだが、その多くを手掛けたと思われる。玄魚と親しかった仮名垣魯文(かながきろぶん)の書物に、鯰絵を発注したい版元が玄魚の家に集まっていたことや、一財産を築いたことなどが記されている。大震災を風刺した玄魚が、復興への思いが込められた名所江戸百景を締めくくったのだ。まさに肩書に収まりきらない、時代の寵児だったのだろう。

そんな玄魚も西洋化が進むと、出版界の最前線から退いている。生前の広重は予想もしなかっただろうが、江戸が本来の姿を取り戻してほしいと描いた絵が、西洋の影響を受ける以前の江戸を伝える最後の錦絵シリーズとなった。日々移り変わる浮世を描いた作品は、時代を映す鏡。だからこそ、名所江戸百景の魅力も色あせることなく、「我々がどこからきたのか」を教え続けてくれる。

筆者は広重の足跡をたどりながら、当時の季節感を味わい、今も残る江戸の面影を見つけることに喜びを感じてきた。全作品完成までの間に風景が一変し、撮り直したいと思える場所もあるが、本連載はこれにて最終話。これからは名所江戸百景のみならず、他の浮世写真にも挑戦し、「我々がどこへ向かうか」を見据えてゆきたい。

『富嶽三十六景NOW! 下目黒』 浮世写真家 喜千也 (2021)。葛飾北斎の『富嶽三十六景』には、江戸(主に東京23区)からの景色が16枚ある。その中で今でも富士が見える場所は、下目黒だけになってしまっている
浮世写真家 喜千也 『富嶽三十六景NOW! 下目黒』(2021)。葛飾北斎の『富嶽三十六景』には、江戸(主に東京23区)が舞台の絵が16枚ある。その中で、今でも富士が見える場所はここだけしかないようだ

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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