北朝鮮による日本人拉致事件

北朝鮮拉致問題、いまだ解決に至らない理由 : 最初の事件から46年、日朝首脳会談から21年超(前編) 

政治・外交 社会

日本の歴代政権が外交の最重要課題の一つに位置づけながら、21年以上にわたって進展させられない難題──それが北朝鮮による日本人の拉致事件だ。その被害者数は日本政府が正式に認定しているだけでも17人、拉致の可能性が否定できない特定失踪者は800人を超える。2002年の日朝首脳会談により5人の帰国が実現したが、その後、交渉は暗礁に乗り上げたままだ。被害者やその家族の高齢化が進むなか、突破口はどこにあるのか。いま一度、問題の全容を振り返る。

海岸沿いで頻発した「奇妙な事件」

高度経済成長も一段落し、「先進国」としての繁栄を享受しつつあった1970年代の日本。だが、平和の間隙を縫って、北朝鮮による卑劣な「対外工作活動」が始まっていた。

1978年8月15日夕方5時過ぎ、富山県高岡市の海岸沿いを歩いていた若い男女2人が見知らぬ4人組の男に襲われた。手足を拘束されて猿ぐつわをはめられ、布の袋に放り込まれた。犯人たちは、2つの布袋をそばに置いたまま日本海を目の前に何かを待っていた。逃亡を手伝う仲間が、船で到着するのを待っていたのだろう。

その時、犬の鳴き声がした。近くに人がいると感じたのか、犯人たちは慌てふためき、袋に入れた2人を置き去りにして現場から逃亡した。事件は未遂に終わったのだ。当時、日本の海岸沿いでは突然行方不明になる事件が相次いでおり、この男女が遭遇したような手口で多くの日本人が北朝鮮に連れ去られたと考えられる。しかし、当時の日本ではこれが北朝鮮による拉致だとは分からなかった。高岡市の一件は警察も動機不明の奇妙な事件として処理し、新聞やテレビのニュースの扱いも小さなものだった。

拉致の手口は様々で、北朝鮮の工作員だった勤務先のラーメン店店主によって拉致された田中実さんのように、身近な人物を狙う例もある。海外で拉致されたケースも複数あり、そこにはなんと、日本人も関与していた。

83年に拉致された有本恵子さんは、ロンドンに留学中、「よど号事件」(70年)の実行犯の妻・八尾恵によってデンマークに誘い出され、北朝鮮に連れていかれた。よど号事件とは武装した日本人の左翼活動家9人が乗客を人質に飛行機をハイジャックし、北朝鮮に亡命した事件だ。彼らはその後、日本から渡航後に結婚した妻たちとともに日本人拉致事件に協力するようになった。同じく欧州で拉致された松木薫さんや石岡亨さんのケースでも、よど号犯の妻が実行犯となっていたことが判明している。

そもそも、なぜ北朝鮮は日本人を拉致したのか。1953年に朝鮮戦争が休戦となると、北朝鮮は韓国への諜報(ちょうほう)活動を活発化させた。韓国側のスパイ対策も強化されていくなか、拉致した日本人によって自国の工作員に日本語教育を施したり、日本人になりすまして入国させたりするなどの目的があった。

現在、日本政府が認定している拉致事件は12件、被害者の数は17人。だが、これは氷山の一角にすぎない。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」はさらに7人を拉致被害者として独自に認定し、同じく民間団体の「特定失踪者問題調査会」は約470人が拉致被害者の可能性があるとしている。また、日本政府が「拉致の可能性を排除できない」として発表している人数は873人(2021年11月現在)にのぼる。国連の北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)の最終報告書(14年)では、「少なくとも100名の日本人が北朝鮮に拉致された可能性がある」と指摘している。

金賢姫が衝撃証言「日本人から日本語を習った」

まだ「疑惑」にすぎなかった拉致問題への北朝鮮の組織的関与が明確になったのは、1987年の大韓航空機爆破事件がきっかけだった。

韓国へ向かう旅客機に仕掛けられた爆弾がインド洋上空で爆発し乗客・乗員全員が死亡したこの事件で、実行犯として逮捕されたのは北朝鮮の工作員・金賢姫(キム・ヒョンヒ)だった。

ソウル・金浦空港に連行された金賢姫容疑者(時事)
ソウル・金浦空港に連行された金賢姫容疑者(時事)

金賢姫は犯行当時、偽造パスポートを所持して日本人になりすましており、流暢に日本語を操った。取り調べに対し、「北朝鮮で李恩恵(リ・ウネ)という日本人女性から日本語を習った」と証言した。金賢姫は李恩恵の本名を聞かされていなかったが、李恩恵がノートに書いたことがあった「ちとせ」という名前などから、78年に東京・新宿区のベビーホテルに2人の子どもを預けたまま失踪した田口八重子さん(当時22歳)が浮上した。

「ちとせ」は田口さんが働いていた都内のキャバレー「ハリウッド」で使っていた源氏名だったのだ。日本から派遣された捜査員が田口さんの写真1枚を含む15枚の女性の写真を示すと、金賢姫は迷うことなくその中から田口さんの写真を選んだのだった。

91年5月、警察が記者会見で李恩恵が田口さんだったことを明かすと、メディアも大きく報道し、日本国内に大きな衝撃を与えた。

この件があってもなお、日本政府や捜査当局の動きは鈍いままだった。90年代後半、ようやく状況が変化し始める。当時、朝日放送報道局のプロデューサーで、拉致報道の先駆的存在である、ジャーナリストの石高健次さんは言う。

「北朝鮮報道のあり方」を考える記者会見・討論会に出席したジャーナリスト。右端が朝日放送報道局プロデューサーの石高健次さん=東京・永田町の参議院議員会館(2002年10月)(時事)
「北朝鮮報道のあり方」を考える記者会見・討論会に出席したジャーナリスト。右端が朝日放送報道局プロデューサーの石高健次さん=東京・永田町の参議院議員会館(2002年10月)(時事)

「私は97年1月、20年前に行方不明になった中学1年生の横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致されていたことを取材で突き止めました。このころはまだ日本人で拉致問題に関心を持つ人は少なかったのですが、2月になってこのことが報じられると、政府も関心を寄せるようになりました」

横田めぐみさんの拉致事件については後編で詳述するが、拉致被害者の救済活動の先頭に立ってきたのが、めぐみさんの両親である滋さん(故人)と早紀江さんだ。滋さんは、97年3月に結成した「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(以下、家族会)」の代表に就任。同年8月には50万筆の署名を集めて首相官邸に提出し、メディアも拉致問題を繰り返し取り上げるようになった。

(関連記事 : 北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる動き

日朝首脳会談で謝罪した金正日総書記

日本国内の世論は高まったが、北朝鮮は一貫して犯行を否定し続けた。状況が大きく変わったのは、2001年に小泉純一郎政権が成立してからである。

外務省の田中均アジア大洋州局長らによる水面下の交渉を経て、02年9月17日、ついに小泉首相の平壌訪問が実現する。日本の首相が北朝鮮を訪問するのは初めてのことだった。

2002年9月17日 小泉訪朝 (ロイター)
2002年9月17日 小泉訪朝 (ロイター)

北朝鮮の金正日総書記は首脳会談で、「(北朝鮮の)特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」との認識を示し、謝罪した。拉致が事実だと初めて公式に認めたのである。歴史が動いた瞬間だった。

翌月15日には、拉致被害者5人の帰国が実現した。帰国したのは、蓮池薫さんと妻の祐木子さん(新潟県柏崎市)、曽我ひとみさん(同県佐渡市)、地村保志さんと妻の富貴恵さん(福井県小浜市)。いずれも1978年に北朝鮮に拉致され、24年を経てようやく祖国の土を踏んだ。04年には小泉首相が2度目の訪朝を行い、5人の家族の帰国も実現した。

北朝鮮から24年ぶりに帰国し、政府チャーター機のタラップを降りる拉致被害者ら。前列左から中山恭子内閣官房参与、濱本富貴恵さん、地村保志さん。2列目左から奥土祐木子さん、蓮池薫さん。3列目左端は曽我ひとみさん。3列目右は斎木昭隆外務省アジア大洋州局参事官、搭乗口は安倍晋三内閣官房副長官(2002年10月15日午後、東京・羽田空港)
北朝鮮から24年ぶりに帰国し、政府チャーター機のタラップを降りる拉致被害者ら。前列左から中山恭子内閣官房参与、濱本富貴恵さん、地村保志さん。2列目左から奥土祐木子さん、蓮池薫さん。3列目左端は曽我ひとみさん。3列目右は斎木昭隆外務省アジア大洋州局参事官、搭乗口は安倍晋三内閣官房副長官(2002年10月15日午後、東京・羽田空港)(時事)

だが、状況は全面解決からはほど遠かった。北朝鮮側は、横田めぐみさんら日本側が被害者と認定した残りの12人について、「8人はすでに死亡」「4人は入境していない」と主張。だが、北朝鮮側の説明や提示してきた “証拠” は疑問だらけで、日本側は再調査を求め続けている。

拉致「自白」から一転、態度硬化の理由

北朝鮮はなぜ、拉致を認めたのか。世界的な冷戦が終結し、後ろ盾だったソ連が崩壊するなか、北朝鮮は1990年代から食糧事情が悪化し、拉致問題の進展と引き換えに日本に経済協力を求めていたという事情があった。事実、2回目の日朝首脳会談では、日本政府から国際機関を通じて25万トンの食糧と1000万ドル相当の医薬品などの支援を行うことを約束した(後に凍結)。

その後の交渉が頓挫したことには、北朝鮮の方針転換も影響した。核開発を国防の最優先課題として進めていた北朝鮮は2006年10月に地下核実験を実施して事実上の核保有国になり、大陸間弾道ミサイルの開発も並行して続けた。日本国内でも圧力の強化を求める声が高まり、国連総会でも北朝鮮の人権侵害を非難する決議が採択された。国際社会で孤立を深めるなか、北朝鮮の「拉致問題は解決済み」という姿勢が強まっていった。

12年に発足した第2次安倍政権は、拉致問題の解決を主要な政策の一つに掲げた。安倍晋三氏は北朝鮮との交渉の基本方針として「対話と圧力」を掲げ、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」と訴えた。だが、これといった成果を出すことはなかった。

最も期待が高まったのは、14年5月にストックホルムで行われた日朝間の政府間協議である。北朝鮮が拉致をはじめとする日本人の行方不明問題を調査することと引き換えに、日本が科している制裁の一部を緩和することで両国が合意した。

報道によると、合意に関連して、北朝鮮は非公式の場で70年代後半に行方不明になった田中実さんと金田龍光さんの生存を明かしたという。しかし、その後交渉は決裂。現在も進展がないままだ。

なぜ、拉致問題は解決しないのか。石高さんはこう話す。

「今でも拉致被害者が北朝鮮にいることはわかっているのに、政府は救出することができていません。日本には捜査部門を持つ情報機関がないことがその理由の一つで、親北の第三国工作員を抱き込むなどして、北朝鮮の内部情報を得ることができないから、有効な交渉の糸口すら見いだせない。結果、外国に拉致された自国民を救出できない状態が続いている。それは、日本の安全保障自体の危うさでもあります」

(後編はこちら

取材・文:西岡 千史、POWER NEWS編集部
バナー写真:北朝鮮による拉致被害者の帰国を求める「国民大集会」で気勢を上げる被害者家族ら 2023年5月27日午後、東京都千代田区(共同)

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