【書評】西側の原爆開発計画を盗んだソ連の女性スパイ:ベン・マッキンタイアー著『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員――愛人、母親、戦士にしてスパイ』
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膨大な資料と取材をもとにした本書は、登場人物の人間像やそのときの心理に深く分け入った、物語性豊かなノンフィクションになっている。
ソ連軍情報部(GRU)の女性スパイ、暗号名「ソーニャ」ことウルズラ・クチンスキー(1907~2000年)の最大の功績は、英国で原爆開発に深くかかわっていた物理学者クラウス・フックスを操り、すべての情報を吸い上げモスクワに逐一報告したことである。これにより、ソ連の原爆開発は急ピッチで進み、1949年8月、最初の核実験に成功する。それは「事実上アメリカの原爆のコピー」であった。以後、米ソ両超大国は、核の相互抑止のもとで睨みあうことになるのだが、彼女の果たした役割は現代史をおおきく左右するものだったといえるだろう。
一九二四年五月一日、ベルリンの警察官がゴム製の警棒で一六歳の少女の背中を激しく殴打し、それによって革命家をひとり生み出した。
少女とは、のちにソ連のスパイとなる若き日のウルズラである。当局が労働者の祭典メーデーのデモで、共産主義者を弾圧する光景から始まる本書は、年代を追って彼女の生涯を辿っていくことになる。
「スパイだと思ったことは一度もなかった」
冒頭で記したが、ウルズラのスパイ活動の最大のヤマ場は、英米の原爆開発計画に関連する情報収集だった。それはドイツがソ連に侵攻したのちの1942年から43年にかけてのことである。本書の記述とは順序が逆になるが、先に彼女の後年のスパイ活動から紹介してみよう。
ウルズラは、ドイツ系ユダヤ人でそれなりに豊かな中産階級の出身だった。父親は著名な人口統計学者であり共産主義のシンパ、3歳年上の兄ユルゲン・クチンスキーも、のちに左派系の経済学者となり、共産党員だった。彼らはナチの迫害が激しくなると英国に亡命。1941年2月、ウルズラもまた、夫婦でスパイ活動をしていたスイスから、身の危険を感じて英国に逃れていた。
1942年夏、ウルズラはクラウス・フックスと接触を開始した。ドイツ出身のフックスは父親の影響を受けた共産主義者で、ドイツ共産党に入党。大学で物理学を学んでいたが、ナチの弾圧を受け、1933年に英国に渡った。その後、物理学者として頭角をあらわし、1941年6月から政府が極秘に進める原子爆弾開発プロジェクトに参加していた。それがなぜ、ソ連のスパイになったのか。
フックスは、見かけこそ浮世離れした学者先生だったが、心の中では昔と変わらぬ熱心な共産主義者であり、猛烈な反ファシズム派だった。
1941年、ヒトラーはソ連に侵攻したが、ともに戦っているはずの英国は、原爆開発をソ連に知らせていない。著者は、フックスの言葉を引用してこう記している。
「私は自分をスパイだと思ったことは一度もなかった(略)なぜ西側が原子爆弾をソ連政府と共有しようとしないのか(略)あれほど圧倒的な破壊力を持つ物は、すべての大国が平等に利用できるようにすべきというのが、私の考えだった」
「私は共産党の別の党員を通じて連絡を取った」
「ウラン爆弾についての情報を入手せよ」
その党員こそ、ウルズラの兄ユルゲン・クチンスキーだった。彼はただちに友人だった駐英ソ連大使と連絡を取り、そこからフックスとGRU(ソ連軍情報部)とがつながった。
モスクワからはすぐに返信が来た。「あらゆる手段を講じて、ウラン爆弾についての情報を入手せよ」
ほどなく、任務はGRUの大佐からウルズラに引き継がれた。本部は、彼女を「イギリスにおける我々のイリーガル(筆者注・大使館員を装った合法的な情報部員ではなく非合法な工作員)支局長」とみなしていた。
ウルズラとフックスの極秘情報の受け渡しの描写は詳細であり、ここが興味津々の読みどころである。ウルズラの巧みな懐柔によってふたりは打ち解けた関係となり、フックスは進んで情報を提供する。彼女は膨大な成果を挙げた。
フックスが一九四一年から一九四三年のあいだにソヴィエト連邦に渡した科学上の秘密は、諜報史上きわめて内容が濃い収穫物で、量にして約五七〇ページになる情報には、報告書の写し、計算式、スケッチ、数式と図形、ウラン濃縮装置の設計図、急速に進む原爆開発計画の段階ごとの指針などが含まれていた。
このとき、ウルズラには二度目の結婚となる夫と2人の子供がいて、妊娠もしていた(3人とも父親は違う)。そのため、英国の防諜機関MI5は、ドイツとソ連のスパイを監視していたが、彼女は要注意の対象者とはならなかった。
彼女が女性であり、母親であり、妊娠していて、表向きは単調な家庭生活を送っていることが、全体として完璧なカモフラージュになっていた。
こののち、原爆開発の主導権は米国が握るようになり、フックスは渡米。「マンハッタン計画」の中枢に参画するようになる。米国の原爆さらには水爆開発にまつわる国家機密は、フックスの手によってすべてソ連に筒抜けになっていたのである。
ゾルゲとの運命的な出会い
著者のベン・マッキンタイアーは、以前にも本欄で『キムフィルビー かくも親密な裏切り』『KGBの男 冷戦史上最大の二重スパイ』の2作を紹介したが、スパイを題材にしたノンフクションでは英国の第一人者である。
ここで時代をさかのぼってみる。そもそも、ウルズラはなぜスパイになったのか。リヒャルト・ゾルゲとの運命的な出会い。本書の表題にもある通り、このあたりが前半の最大の読みどころである。
ウルズラは、父親と兄の影響を受け共産主義に傾倒し、19歳のときにドイツ共産党に入党した。1929年秋、ウルズラは最初の夫となる建築士のルディ・ハンブルガーと結婚。翌年、夫の仕事の関係で上海に渡った。共同租界を有する国際都市上海は、スパイの巣窟だった。この地で、アメリカの急進的な女流作家アグネス・スメドレーと知り合ったことが、彼女の人生を決めたのだ。スメドレーは熱烈な共産主義シンパであり、ソ連のスパイでもあった。
スメドレーの紹介でウルズラはゾルゲと会った。著者はこう書いている。
ウルズラの目にまず入ってきたのは、その男性の「細長い頭、ウェーブのかかった濃い髪の毛、すでに深いしわの刻まれた顔、黒いまつげに縁取られた濃い青色の目、美しい形をした口」という、並外れた美貌だった。
このときのゾルゲは年のころ35歳。足を引きずって歩き、左手の指が三本欠けていた。
彼は魅力を振りまいていたが、同時に危険な香りも放っていた。この男性は(略)スメドレーの諜報活動における主要なパートナーであり、彼女の現在の愛人で、上海にいる中で最も高位のソ連側スパイであり、経験豊富なプレイボーイで、赤軍情報部の将校だった。
二重生活のスリルに夢中となり・・・
ちなみに、日本で最も著名なスパイといえるゾルゲは、1933年、上海から日本に活動の拠点を移し、特派員の身分に偽装して、駐日ドイツ大使館や日本の政府高官、ジャーナリストと交流を結び、政府・軍部の動向を探るようになる。しかし、41年にスパイだったことが発覚して逮捕され、処刑されたのだった。
著者による、ゾルゲの内面にまでおよぶ人物描写は圧巻である。ウルズラはゾルゲに夢中となり、彼のもとでスパイ活動に手を染めることを決意する。彼女には「ソーニャ」という暗号名が与えられた。なぜ彼女はスパイになったのか。著者はこう記している。
多くのスパイと同様、ウルズラも二重生活のスリルに次第に夢中になり、危険と家庭生活が絡み合い、表向きの生活を送ると同時に極秘の生活も送るという状況に酔いしれていた。
リヒャルト・ゾルゲは(略)興奮とやりがいと危険に満ちた世界を彼女に見せていた。(夫の)ルディと一緒なら安心だし不平や不満もない。しかしゾルゲと一緒なら、バイクの後ろに乗って突っ走ったり、秘密の会合に参加したり、極秘任務を果たしたりして、生きているという実感を得ることができた。
さらには、
宗教の熱心な信者のように、彼女は自分の人生を捧げるべき唯一の揺るぎない信条を見つけていた。ヒトラーが台頭し、日本の侵略が激しさを増し、中国共産主義者の殺戮が続いているのを見て、ファシズムと戦おうという決意は、いっそう強くなった。
そしてこう記す。
これ以降、彼女の生涯は徹底した秘密と欺瞞によって形作られ、憎悪する相手に対してだけでなく愛する人々にも真実を隠して生きていくことになる。
生涯を通して最も愛した男性
ここから先、スパイとなったウルズラの活動は、本書をじっくり読んでほしい。かけ足で紹介しておけば、彼女はモスクワで本格的な訓練を受け、筋金入りのスパイとなっていく。そこからもうひとりのソ連工作員とともに恋人を偽装して満州に送り込まれ、さらには北京、ポーランドへと活動の拠点を移していく。
ウルズラは、スターリンの粛清の嵐からどのように生き延びたのか。ナチスの電撃的な進軍が欧州を席巻する最中には、「ヒトラー暗殺計画」を起案し、今度は各国のスパイが暗躍するスイスのジュネーブを根城にした。その後に、偽装結婚によって英国籍を得て渡英し、原爆開発計画をスパイすることになるのである。
彼女は非合法の工作員なので、発覚すればすぐに逮捕されてしまう。常に身の危険が迫る中で、彼女は愛人との生活をはさみ、2度の結婚、そして3人の子供をもうけている。そうしたなかで任務を遂行していくのがいかに困難なことであったか。著者は、スパイ活動の本質について、こう書いている。
人は困難な状況を切り抜けると、アドレナリンで気分が高揚し、破滅を逃れたことで運命を強く感じるようになる。諜報活動は、つまるところ想像力を働かせる仕事であり、自分や他人を実世界から人工的に作り上げた世界へ移し、表向きはある人物を演じながら、裏では別の、他人には知られていない人間であり続ける意志が求められる。
ソ連は彼女の功績を評価し、赤旗勲章を授け、軍情報部での階級は大佐になっていた。だが、次第に身辺に危機が迫ってきた。
1950年2月、4年前に帰国していたフックスが逮捕される。それは世界に衝撃を与えるニュースとなったが、間一髪、ウルズラは空路、故郷ベルリンに脱出した。彼女には、スパイを続ける気がなかった。異例なことだが、本部は辞職を認めた。それから40年間、彼女は東ドイツにとどまった。その後の人生と、ソ連崩壊に際しての彼女の心情にまつわる記述にも興味が湧くことだろう。
そして、本書はウルズラの愛の遍歴の物語でもある。著者は、スパイ活動と並行して彼女の家庭生活の苦悩と最初の夫をはじめ複数の男性との関係を丹念に追っていく。それがウルズラの人物像をよりくっきりと浮き彫りにしており、ツヤのある作品となっている。結局のところ、彼女の人生を支えていたのは、この男だったのか。著者はこう書いている。
(略)生涯を通じて最も愛した男性は、一九三一年に、上海市内を猛スピードで突っ走るバイクの後ろに座って黄色い声を上げていたときに見つけていた。額に入れたリヒャルト・ゾルゲの写真が、ウルズラの書斎の壁に終生掛けられていた。
「ソーニャ」ことウルズラは、2000年7月7日に亡くなった。享年93。
「ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員――愛人、母親、戦士にしてスパイ」
ベン・マッキンタイアー(著)、小林朋則(訳)
発行:中央公論新社
四六版:513ページ
価格:3190円(税込み)
発行日:2022年2月25日
ISBN:978-4-12-005506-5
