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濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』:「もっと映画を撮るのがうまくなりたい」世界的名手が見つめる創作と倫理

Cinema

米アカデミー賞の国際長編映画賞をはじめ、世界の映画賞を席巻した『ドライブ・マイ・カー』(21)から3年。映画監督・濱口竜介の新作長編『悪は存在しない』は、長野県の小さな町で巻き起こる騒動が、日本のみならず世界各国の政治や経済の状況を照らし出す一本だ。再び小規模の映画製作に戻った濱口が、自身の創作論や社会への目線を語った。

濱口 竜介 HAMAGUCHI Ryūsuke

1978年、神奈川県川崎市生まれ。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後も317分の長編映画『ハッピーアワー』(15)が多くの国際映画祭で主要賞を受賞、『偶然と想像』(21)でベルリン国際映画祭銀熊賞、『ドライブ・マイ・カー』(21)で第74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。2023年、『悪は存在しない』でベネチア国際映画祭銀獅子賞に輝く。日本人監督で米アカデミー賞と世界三大映画祭すべてで主要賞を受賞したのは黒澤明以来2人目。

「“自然”というモチーフは、普段の自分があまり使わないもの。今回それが出てきたのは、石橋さんの音楽のために映像を作るという出発点があったからだと思います」

きっかけは、濱口竜介監督の前作『ドライブ・マイ・カー』の音楽を手がけた石橋英子が、濱口にライブパフォーマンス用の映像制作を依頼したことだった。最初は「何をすればいいのかがあまり明瞭じゃなかった」という濱口だが、試行錯誤を経て、“いつも通りの映画”を作ることを決定。きちんと脚本を書き、演出した劇映画からライブパフォーマンス用の映像を作り上げるという方法を採った。

その結果として完成したのが、映画『悪は存在しない』と、石橋のライブのために製作されたサイレント映像『GIFT』である。

石橋英子のライブ公演「GIFT」は2024年2~3月に京都・東京で上演された ©2023 NEOPA / Fictive
石橋英子のライブ公演「GIFT」は2024年2~3月に京都・東京で上演された ©2023 NEOPA / Fictive

「我々が生きている世界に近いものが描ける」

舞台は長野県の架空の町・水挽町(みずびきちょう)。自然豊かで東京にも近いこの町で、グランピング(ホテル滞在と同等の体験ができる高級キャンプ)の専用施設を建設する計画が持ち上がる。コロナ禍で苦境にあった東京の芸能事務所による、政府の補助金狙いのプロジェクトだ。町民向けの説明会を開くために担当者が町を訪れるが、その計画は町の環境や生活を破壊しかねないものだった──。

脚本を執筆するため、濱口は石橋の活動拠点である長野と山梨の県境でリサーチを実施。構想の決め手になったのは、グランピング場の建設計画と説明会の話題を現地で耳にしたことだった。

「その話を聞いた時、我々が生きている世界に近いものが描けると思ったんです。劇中の説明会とかなり近い状況が現実にあり、住民の目にはずさんな計画にもかかわらず、まるで問題がないかのように進められようとしていた。現実の計画はその後進展しなかったようですが、同じようなことは僕たちの生活空間、例えば自分たちが働いている業界にも起きていると感じました」

物語の中心は、町に暮らす寡黙な青年・巧と娘の花、芸能事務所からグランピング場建設の担当者として送り込まれた高橋と黛の4人。濱口は「自然と人間の関係をドラマとして描こうとした時、巧たち親子のような自然との関わり方だけよりも、都市の人間が自然を食い物にしているような関わり方を交えたほうが自分にとってよりリアルに描けるように感じられた」と語る。

巧役の大美賀均はリサーチのドライバーとして企画に参加。のちに濱口から主演のオファーを受けた ©2023 NEOPA / Fictive
巧役の大美賀均はリサーチのドライバーとして企画に参加。のちに濱口から主演のオファーを受けた ©2023 NEOPA / Fictive

長期にわたるリサーチを経て、脚本が完成したのは2023年1月。登場人物の思惑が絡み合い、時にすれ違うストーリーは、観る者の予想を覆す方向へと突き進んでゆく。いわく、「執筆期間自体は非常に短かったので、ものすごく考えながら書いたというよりも、むしろ“書けてしまった”という感じ」。ただし、決して奇をてらった展開を狙ったわけではないという。

「あくまでも人々の行動原理がきちんと集積してゆくものを目指すように心がけています。彼ら全員の行動原理にしたがい、“この人はこういうことをする、しない”という感覚を突き詰めることでフィクションの世界に強度が生まれる。僕しか知らない設定や情報もある以上、それらすべてを観客に伝えようとは思いませんが、“この世界はこうなのだ”と自分自身が納得できるものを書きました」

ユーモアについても同様だ。思わず笑いがこみ上げるような場面やシチュエーションもあるが、「正直に言えば、特に笑わせようとは思っていません」。

「観客の反応はコントロールできないし、こちらの意図通りに観客へ伝わらないのは大原則。単純にこのキャラクターはここでこういうことを言いそう、しそうということを連ねていく、ということをしています。結果として、ここ10年くらいは映画祭で笑いが起きることも多いですが、それは好意的に接してもらえているということなので、それはそれでありがたいことだと思っています(笑)」

社会常識とは、倫理とは

濱口の作品には、恋愛や性を通して人間社会の倫理や善悪を問い直すような側面がある。近作でいえば、『寝ても覚めても』(18)や『偶然と想像』(21)はとりわけ直截的だ。本作も例外ではなく、過去作とは手つきこそ少々異なるものの、同じく倫理の問題に迫る物語となっている。なにしろ、映画のタイトルは『悪は存在しない』なのだ。

しかし、濱口はこのタイトルについて「善悪や倫理の問題を直接的に指すものではない」と言う。「“自然”というモチーフを言い換えると、こんな言葉になるのではないかと思った」のだと。

「倫理や常識というものは、個別の人間それぞれに対応しきっていないし、倫理的でありたいと願うような人ひとりの人生の中でさえ、それらが当てはまる時間とそうでない時間があると思います。だから自分の作品に限らず、人が倫理や常識に囚われている時間だけを描いた作品はそもそもあまりないし、あったとしても自分はあまり興味はないです」

また、濱口は倫理や常識を支える「社会」というものの実体にも疑いの目を向ける。「自分たちが社会だと思っているものは、たとえばマスメディアが『社会はこういうものだよ』と提示しているものにすぎない」というのだ。

「だからこそ、人は自分の情報源が偏らないよう、新聞や雑誌、インターネットやSNSなどを多角的に見るわけです。しかしそれらの総合でさえ、結局は“なんとなく社会っぽい”だけで、実際の社会なのかはわからない。特にユーザーの滞留時間を増やすためにアルゴリズム化されたSNSは「社会を知る」ための情報源としては、非常に粗悪なものになりつつありますよね。大切なのは、誰もがそれぞれに“社会っぽい”と思っているものがあるということ、現実にはそれらが互いに相当異なっているのを認識しながら生きることだと思います」

芸能事務所の社員2人と巧の関係は少しずつ変化してゆく ©2023 NEOPA / Fictive
芸能事務所の社員2人と巧の関係は少しずつ変化してゆく ©2023 NEOPA / Fictive

では、映画や物語はこの“社会”に対して何をなすべきか。つねに正しいメッセージを語るべきなのか、悪や非倫理的なものをいかに扱っていくべきなのか。濱口は「大前提として、フィクションの中では基本的に何を描いてもいいと考えています」と言う。

「虚構の中で誰かが死んだとしても、現実にその人が死ぬわけではありません。フィクションは、あらゆる善悪や道徳観念を実験できる場であることは確かです。しかし、『フィクションと現実は本当に切り離されているのか?』という議論になれば、やはり本当の意味で切り離されているとは言えません。多くの作品は人間世界を描いているのだし、SFやファンタジーでさえ、その根底には人間の思考や発想がありますから。当面の答えは描かれた題材にふさわしくゾーニングをすること、にはなるでしょう」

しかも映画や演劇の場合、俳優という現実の存在なくして虚構の世界が立ち上がることはない。「一つ明確に言えるのは、今の社会常識や倫理観を適用しなければ、社会活動としての映画製作はできない、ということです。少なくとも現場において、社会通念上問題のある行為や振る舞いは避けられるべきです」

大作と小規模映画を行き来する

西島秀俊、三浦透子、岡田将生らを出演者に迎えた『ドライブ・マイ・カー』から、濱口自身のルーツであるインディペンデント性に再び戻ってきた『悪は存在しない』へ。2本の長編映画は企画のスケールや方向性から大きく異なるが、濱口自身のモチベーションや仕事のしかたに大きな変化はなかったという。

「大きい現場だとコミュニケーションを取る人数が多くなり、小さい現場だと少なくなる。そして人数が少ないほどコミュニケーションの精度は高まる傾向がある、というだけです。いかに障害を避けながら自分の仕事をするか、いかに俳優や被写体の演出に集中できる環境を作り出すかという点で、自分のやることはほとんど変わっていないと思います」

撮影の北川喜雄、録音・整音の松野泉とは『ハッピーアワー』以来9年ぶりのタッグとなった。「2人ともすごく優秀なスタッフ。常々、一緒に仕事をしたいと思っていました」と濱口は絶大なる信頼を明かす。

「ライブパフォーマンス用の映像をどうやって作ろうかと考えた時、思い浮かんだのが北川さんと松野さんでした。今回はどんなショットが撮れるのかの目算が立たないと、シナリオさえ書けなかったので、北川さんとはリサーチの段階から各地を一緒に回ってもらいました。キャリアの初期、ドキュメンタリーのような作り方をしていた頃から彼は関わってくれていたので、こういう闇雲な作り方にも付き合ってもらえるのではないかと。松野さんも居方が素晴らしい人です。演技経験の少ない人が多い現場になるので、俳優を威圧しないスタッフである必要がありました」

美しい自然の風景もまた、本作の登場人物だといえる ©2023 NEOPA / Fictive
美しい自然の風景もまた、本作の登場人物だといえる ©2023 NEOPA / Fictive

いわば原点回帰のような映画づくりを経て、今後も濱口は商業映画と小規模作品の両方を手がけていく意向だ。

「大きな現場と小さな現場、両方をやることが自分の精神衛生上いい気がしています。それぞれに異なる良さがあるので、最終的にはそれらを総合できることが理想です。今は、少人数のチームだからこそできる円滑なコミュニケーションを活かしながら、作品のスケールをどの程度まで大きくできるだろうかと試行錯誤している感じですかね」

米アカデミー賞のほか、カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンの世界3大映画祭でも受賞を果たし、日本人として黒澤明以来の快挙を達成した濱口。海外での映画製作も「いずれやってみたい」と意欲を示した。「しかし海外で映画を撮るということは、ある意味で自分の足場がない環境に身を置くこと。それでも大丈夫だと思える軸が自分の中に必要ですね」

では、世界的評価が高まった今、創作に対するプレッシャーはどう変化してきたか──そう尋ねると、「そもそも、もっと上手に映画を撮れるようになりたいんです」と返ってきた。「自分に降りかかるプレッシャーも、そういったシンプルな願いとうまく相互作用させることができれば問題にはならないはず。だからこそいつでも、自分の心が向かう方へ、ワクワクする方へ行くのが大事だと思っています」

©2023 NEOPA / Fictive
©2023 NEOPA / Fictive

作品情報

  • 出演:大美賀 均 西川 玲
    小坂 竜士 渋谷 采郁 菊池 葉月 三浦 博之 鳥井 雄人 山村 崇子 長尾 卓磨 宮田 佳典 / 田村 泰二郎
  • 監督・脚本:濱口 竜介
  • 音楽:石橋 英子
  • 撮影:北川 喜雄
  • 録音・整音:松野 泉
  • 編集:濱口 竜介 山崎 梓
  • 製作:NEOPA / fictive
  • 配給:Incline
  • 製作年:2023年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:106分
  • 公式サイト:https://aku.incline.life/
  • 4月26日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国順次公開

予告編

バナー写真:濱口竜介監督の新作長編映画『悪は存在しない』  ©2023 NEOPA / Fictive

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