橋本聖子氏に聞く:コロナ禍で実感した女性政治参画・五輪「原点回帰」の意義

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スピードスケート、自転車競技選手として夏冬の五輪あわせて7回出場、政界入りしてから結婚、6人の子の母となった橋本聖子さん。五輪・女性活躍担当相として「女性活躍」推進、コロナ禍で2021年に延期された東京五輪・パラリンピックに向け、山積する課題にどう挑むのか話を聞いた。

橋本 聖子 HASHIMOTO Seiko

男女共同参画(女性活躍)/東京五輪・パラリンピック担当相。1964年10月5日、北海道早来町(現安平町)生まれ。東京五輪開催の5日前だった。「聖子」は、開会式の聖火に感激した父・善吉さん(2020年10月死去)が命名。善吉さんは牧場を経営。マルゼンスキーなど名馬を輩出した。父の方針で3歳からスケートを開始。84年サラエボ大会を始めとして冬季五輪にスピードスケートで4回、夏季五輪に自転車で3回出場。92年アルベールビル冬季五輪で銅メダル獲得(スピードスケート1500メートル)。95年参院選自民党比例区で初当選。

永田町で半世紀ぶりの出産

五輪メダリスト、政治家として輝かしいキャリアを歩んできた橋本聖子氏。菅政権で2人の女性閣僚のうちの1人だ。その軌跡を振り返ると、競技者として、また女性議員として男性中心社会の永田町のさまざまな「常識」を打ち破り、挑戦を続けてきたことに改めて驚く。

1995年に参議院議員に初当選。翌年のアトランタ五輪出場(自転車競技)は断念しないという決意で政治家としての第一歩を踏み出した。出場は果たしたものの、「政界は仕事をしなくてもいいところなのか」「練習をしなくて五輪に出場できるほど自転車競技界はレベルが低いのか」などとたたかれ、精神的に落ち込んだという。だが、つらい時期を支えてくれる男性と出会い、98年に結婚、先妻が遺した3人の子どもの母となった。そして2年後、36歳で出産。家族の三女として生まれた娘に、シドニー五輪開催の年にちなみ、「せいか」と名付けた。

「当時は、現職の国会議員が結婚すること自体が驚かれる時代です。まして出産なんてありえない、というのが永田町の“常識”でした。私の出産は参議院では初めて、衆議院で園田天光光(女性初の国会議員の1人・2015年死去)先生以来、50年ぶりでした」

「子どもを産むなら辞職しろ」という声も周囲にはあったが、「子育て中の普通の母親が議員であり続けることが大事」だと信じた。出産前日まで仕事をし、産後1週間で復帰した。平日は娘と議員宿舎で暮らし、一緒に議員会館の事務所に出勤、子連れで出張もこなした。

橋本氏の三女、せいかちゃん(生後1カ月)を抱く当時の森喜朗首相=2000年6月東京・首相官邸/時事
橋本氏の三女、せいかちゃん(生後1カ月)を抱く当時の森喜朗首相=2000年6月東京・首相官邸/時事

「当時、参議院議員が議会を欠席する理由に『出産』はありませんでした。私のことがきっかけで、公的に認められるようになりました。いまでは、女性議員が出産するケースが増え、周囲の受け止め方も変わり、産前産後の休みも取りやすくなっています」

その後男の子2人をもうけ、末息子はいま中学生だそうだ。

「最初の出産を経験した時、永田町に託児所があればいいのにと思いました。それで野田聖子さんや馳浩さんなど、当時の若手議員に相談して、『国会に保育室を』という超党派の議員連盟を結成しました。私が先頭に立つと“自分のためでしょ”と言われるからと、野田さんが率先して動いてくれ、女性だけの問題ではないので、馳さんに会長になってもらいました。私は議員たちへのアンケート調査などを通じて、地道に働きかけました。国会議員だけでなく、子どもを連れて陳情に来られる人たちのためにも、一時預かり所をつくりましょうと呼び掛けました」

2010年にようやく、新築の衆院第2議員会館地下に保育所が設けられた。国会議員や秘書、中央省庁職員のほか、近隣住民、国会の見学や陳情に訪れた人たちの子どもの一時預かりも可能になっている。「結局、私や他の議連の立ち上げメンバーが活用する機会はなかったのですが、後輩議員たちの役に立ててよかったねと喜び合いました」

コロナ禍で実感した女性政治参画の必要性 

世界経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ(男女格差)指数」で日本は153カ国中121位、先進国7カ国の中で最下位を記録した。特に政治分野での遅れが目立つ。男女共同参画担当相として、第5次男女共同参画基本計画の策定を取りまとめた。12月25日に閣議決定した同計画では、具体的な政治分野の数値目標として、候補者に占める女性の割合を、衆議院では2017年衆院選における17.8%から25年までに35%、参議院では19年参院選における28.1%から25年までに35%に引き上げることを求めた。

「有権者の半分は女性です」と、橋本氏はかみしめるように言う。「だからこそ、いま女性たちが直面している問題に取り組むためには、政治にもっと女性の声を反映させる仕組みが必要です。特に、コロナ禍で、そのことを痛感しています。一番大きな影響を受けているのは、働く女性たちですから。女性議員が増えれば、もっと迅速に、女性有権者のニーズをくみ取って、政策に結び付けることができるはずです」

女性議員を増やすには、地方レベルでの「意識改革」が必須だと言う。

「政治に女性の視点を生かすには、国会だけでなく、地方議会でも、同時進行で女性議員を増やすことが不可欠です。各党がもっと多くの女性候補を擁立する必要があります。まず都道府県の政党支部(都道府県連)が意識改革してほしい。選挙で最初に候補者を決めるのは都道府県連ですから。同時に、女性が地方政治に参画しやすい環境も整えてもらいたい」

女性が立候補する際に、一番大きなハードルは選挙運動だと指摘する。中でも、家族に大きな負担がかかると躊躇(ちゅうちょ)する女性が多い。「『選挙とはこうあるべき』という古い体質から抜け出して、国民にリアルに女性候補者の目指す政策がうまく届く仕組みを、もっと考えていくべきでしょう。インターネット選挙運動も解禁されていますし、ネット上のハラスメント対策を講じながら、効果的な方法を編み出すことが大事です。どの職業でも苦労や努力しなければならないところはありますが、無駄な苦労はなるべく避けたい。どこに本気で力を注ぎ、どんな苦労は省けるのか、“見える化”を進めなければなりません 」

「選択的夫婦別姓」を巡り議論が紛糾

政府が5年ごとに策定する男女共同参画基本計画を今回まとめるにあたり、自民党内で議論が紛糾したのは「選択的夫婦別姓制度」を巡る文言だ。大激論の末、夫婦の氏に関する具体的な制度の在り方に関し、家族の一体感や子供への影響等も十分に考慮するなどしつつ、「さらなる検討を進める」との内容でまとまった。

橋本氏は、党内にはまだ、結婚したら夫の姓を名乗るべきだという古い家族観が根強いと率直に認める。一部には、議論することさえ許せないというかたくなな姿勢もあったと言う。「あくまでも“選択的”制度です。強制的に別姓を求めるわけではありません。党内で、現実を踏まえてもう少し冷静に議論を積み重ねていきたい」

夫婦同姓を義務付けるのは先進国の中では日本だけで、厚生労働省の統計では結婚時に改姓するのは96%が女性だ。早稲田大学と市民団体が共同で実施した最近の調査では、選択的夫婦別姓に「賛成」が70.6%を占めた。

「人それぞれの価値観は尊重するべきですが、時代とともに変わるべきものもあります。核家族化が進み、一人っ子が増えるのと同時に、自分たちが生まれ育ってきた姓を継承したいという切実な思いが、結婚を考える若い人たちの中で増えています」と指摘する。「夫婦別姓の導入に慎重な方たちには、同一姓でなければ、家族という絆を守り切れないのかと自らに問い直してほしい。これからの日本を担う若い世代の意見は違います。それぞれの姓は継承しつつ、新しい家族の絆を築き上げていきたいという若者たちの思いこそ、尊重するべきです」

父から受け継いだ五輪への熱い思い

19歳から31歳まで、7回の五輪出場を果たしたが、決して強じんな体の持ち主ではない。病気を抱えながら、ひたすら体質改善に努め、精神力を鍛えて挑戦を重ねてきた。

幼い頃から、実家の牧場にある池で冬はスケートに親しんできた。「オリンピックに出るために生まれた」と父・善吉さんから言い聞かされ、漠然と五輪選手になるんだと思っていたが、小学校1年の時にテレビで札幌五輪を見て、自分も参加するのだというイメージが具体的になった。ところが3年生の時に腎臓病を患い、2年間スポーツは禁止と言い渡される。入院した小児病棟で同じ年の友だちができた。「私の分まで生きてね、がんばってね」―その子が亡くなる前に残した言葉が、いまでも忘れられない。

スピードスケート女子1500メートルで3位に入り、冬季五輪史上日本女子初のメダルを獲得した=1992年2月12日フランス・アルベールビル/時事
スピードスケート女子1500メートルで3位に入り、冬季五輪史上日本女子初のメダルを獲得した=1992年2月12日フランス・アルベールビル/時事

高校2年でスピードスケート全日本選手権に優勝したが、3年で腎臓病が再発。ストレス性呼吸筋不全症を患い、入院した病院内でB型肝炎に感染した。ドーピング検査があるため、たくさんの薬を服用しながらアスリートを続けることは不可能だった。食の改善や運動生理学などのチーム医療で体質改善に努めた。そしてついに、27歳で出場したアルベールビル冬季五輪で銅メダル(スピードスケート1500メートル)を獲得。日本女子初の快挙だった。

「スポーツは、困難や課題と闘って克服するチャンスをくれます」と言う。五輪で選手たちが頑張っている姿は、見る人たちの励みにもなる。特にパラリンピックは、「パラアスリートたちの活躍する姿が子どもたちに勇気を届け、困難は克服することもできると教える教育の場だと思っています」

コロナ禍でも東京大会を実施する意義

1964年の東京五輪の5日前に生まれて、開会式の聖火を見て感動した父から「聖子」と名付けられ、いま五輪担当相として2回目の東京大会に関わることに、「運命」を感じているそうだ。それだけに2021年に延期された大会を、無事に開催して成功させたいという思いは強い。その一方で、「コロナ禍は、五輪開催の意味を立ち止まって考えるいい機会でした」と言う。

「1984年のロサンゼルス大会あたりから五輪の商業主義化が始まり、回を重ねるごとに肥大化していきました。東京大会は、世界平和、国や文化の違いを超えた友情をテーマとする近代オリンピックの原点に立ち返るきっかけにしたいと思っています」

元五輪選手としての経験を踏まえ、東京五輪がどんな「レガシー」を残せるかを考えている。特に、予防医学・予防医療の分野で大きな貢献が期待できると言う。

「トップアスリートを育てるために、食の改善、疲労のメカニズムなど、先端的な予防医学・医療の研究が行われています。こうした研究を地域医療に生かせば、対症療法に過度に依存することなく、健康寿命を延ばせるはずです。医療費削減にもつながり、そこからまた新たな産業を育てる余地も生まれます。健康維持や子どもの体力低下を改善するためには、どのように運動を取り入れると効果的なのかなど、東京大会でスポーツに関心が集まる機会だからこそ、分かりやすい政策として打ち出していきたい」

「コロナ禍でも東京大会を実施する意義を明確に打ち出すことができない限り、実施に懐疑的な国民の声にしっかり答えられません。開催するからには、皆が『やる意味があった』と納得できるような結果を出したいですね」

バナーおよびインタビュー写真撮影=大久保 惠造

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