人質から天下人へ : 家康の人生を彩った5つの城

歴史 建築

2023年の大河ドラマ『どうする家康』は、松本潤さんを主演に迎え、これまでとは違う家康像が描かれる。主要キャストが続々と発表され、話題を集めているが、今後、間違いなく注目を浴びるのが、家康ゆかりの地にあった城だろう。ひと足早く、天下取りの拠点となった5つの城を紹介する。

家康が生まれた岡崎城

岡崎城は、徳川家康が誕生した城だ。現在も愛知県岡崎市康生町に立つ。

そもそもは三河国の守護代だった西郷氏が、1452(享徳元)年に築いた砦(とりで)が起源といわれるが、家康の祖父にあたる松平清康が西郷氏から砦を奪い、城に整備した。

岡崎城の現存遺構・清海堀。最初に砦を築いた西郷頼嗣が「清海入道」と呼ばれていたことが、その名の由来。家康もこの堀を利用していたと考えられる。(PIXTA)
岡崎城の現存遺構・清海堀。最初に砦を築いた西郷頼嗣が「清海入道」と呼ばれていたことが、その名の由来。家康もこの堀を利用していたと考えられる。(PIXTA)

清康死後、松平氏は弱体化し、清康の嫡男・広忠は駿府の今川に従属する。このため、広忠の嫡男・竹千代(家康の幼名)は1547(天文16)年、人質として駿府に送られることになった。ところが、家臣の裏切りによって急きょ尾張国の織田氏へ送られ、ここで信長と知り合ったという逸話が残る(真偽は不明)。

2年後、織田と今川との間で人質交換が進められ、竹千代は正式に今川に行くことになった。

この頃の岡崎城は父・広忠もすでにこの世になく、竹千代は人質だから、城主は実質的に不在だった。それが桶狭間の戦い(1560 / 永禄3年)で今川義元が討死にしたことによって、家康はようやく岡崎城に帰還する。岡崎を離れてから13年が経っていた。

家康入城当時の岡崎城の姿は史料がなく不明だが、石垣はなく、櫓(やぐら)・門の屋根も茅葺きだったと考えられている。『龍城古伝記』は「神君様」(後の家康の呼称)が修築を行ったと記し、今川から独立して領国経営に乗り出す若き日の姿を想起させる。

家康は岡崎城を拠点に、10年かけて三河を統一するのである。

三方ヶ原の危機と屈辱を乗り越えた地・浜松城

1570(元亀元)年、家康は岡崎から東へ約70キロメートルの地にある浜松へ拠点を移した。武田信玄の西上政策に備えるためだった。

浜松城は野面積み(のづらづみ)の石垣で知られる。自然石を加工せず積み上げた石垣だ。1590(天正18)年に浜松城に入った堀尾吉晴が築いた。(PIXTA)
浜松城は野面積み(のづらづみ)の石垣で知られる。自然石を加工せず積み上げた石垣だ。1590(天正18)年に浜松城に入った堀尾吉晴が築いた。(PIXTA)

浜松はそもそも曳馬(または引馬 / ひくま)という地名で、今川氏が永正年間(1504〜1521)頃に築いた城があった。曳馬の由来は「馬を曳く道」=街道であり、商業が発展した宿場町だったことを指している。

家康は地名を、浜辺に松が立ち並んでいたことから浜松と改名し、さらに武田との戦の合間をぬって城を拡充して浜松城と名付け、17年を過ごす。家康在城時は土造りの城で、石垣や天守が備わるのは、後に堀尾氏が城主になってからである。城は現在も静岡県浜松市中区にあり、堀尾氏の時代の遺構が残っている。また、2014年には家康在城時の可能性が高い城郭の遺構も発掘され話題となった。

浜松城は1573(元亀3)年、三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗した家康が、命からがら逃げ帰った城として有名だ。籠城する選択を捨て、野戦に挑んだものの総崩れとなり、多くの家臣が身を挺して家康を守った。おかげで何とか城にたどりついたが、本多忠真(忠勝の叔父)や夏目吉信ら、有能な家臣が戦死した。

だが、屈辱を乗り越え、信玄死後に武田が凋落し始めて以降も、さらに積極的に城の改修を進めた。武田の優れた築城術を吸収し、防御の強化に努めたという。

浜松城は家康にとって、屈辱とそこから学んだ経験を活かした重要な城だったといえる。

家康初の近世城郭・駿府城

武田が滅亡し、また織田信長が本能寺の変で死ぬと、次は羽柴秀吉が家康の前に立ちはだかった。1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いで、家康は秀吉と刃を交える。

結果は引き分けだったが、この戦いによって秀吉に次ぐ地位を得ると同時に、対秀吉に備えて拠点を駿府に移して城を築いた。家康にとって初の近世城郭(天守や石垣を中心とした城郭を持つ)、駿府城の歴史はここから始まる。

現在は、駿府城公園(静岡県静岡市葵区)として市民に親しまれている。

『日本古城絵図』所収の駿府御城図。江戸中期以降に作成されたもので、家康在城時とは異なるが、古くから天守台(中央)を中心に広い城郭を持っていたことは伝わってくる。(国立国会図書館所蔵)
『日本古城絵図』所収の駿府御城図。江戸中期以降に作成されたもので、家康在城時とは異なるが、古くから天守台(中央)を中心に広い城郭を持っていたことは伝わってくる。(国立国会図書館所蔵)

現在は駿府城公園として一般に開放されている。写真は2014年に完成した二の丸南西の坤(ひつじざる)櫓。調査も積極的に進められ、時代は不明だが天守台も発掘されている。(PIXTA)
現在は駿府城公園として一般に開放されている。写真は2014年に完成した二の丸南西の坤(ひつじざる)櫓。調査も積極的に進められ、時代は不明だが天守台も発掘されている。(PIXTA)

築城開始は1585(天正13)年7月、家康の入城は同年12月だった。2年後には天守の完成もみたが、家康が造った天守は謎のベールに包まれており、その姿は分かっていない。
わずかに『東海道図屏風』『日光東照社縁起』などの絵画資料に当時の天守が描かれているが、どれも正確な姿を記録しているとは言い難い。

家康の駿府時代は1590(天正18)年、秀吉の命によって関東に移封されたことにより、6年で幕を引く。代わって秀吉子飼いの家臣・中村一氏(なかむら・かずうじ)が入った。

だが、江戸に幕府を開いて後、嫡男・秀忠に将軍職を譲ると、「大御所」となって再び駿府に戻ってくる。一時、京都の二条城に移った他は安住の地とし、1616(元和2)年に駿府城で息を引きとった。

初代江戸城は白亜の城だった

関東に移封となった家康は、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野に、常陸を加えた関東8カ国(関八州)を与えられた。その中から家康は武蔵国の江戸を拠点に選んだ。

さらに関ヶ原の戦い後の1603(慶長8)年、征夷大将軍宣下を受けると、将軍の居城として大整備する。

徳川の江戸城の誕生だ。現在、皇居がこの場所にある。

改修は諸大名に手伝わせる「天下普請」で行われた。多くの大名が参加し、石垣となる石材は伊豆や相模の沿岸から船で運んだ。静岡県伊東市富戸などには、今も石を切り出した丁場跡が残っている。

伊豆半島の東海岸には「石丁場」と呼ばれる江戸城築城石の採石場の痕跡が点在しており、矢穴(鉄製の矢を差し込んで石を砕く穴)が残る巨石が今も横たわっている(PIXTA)
伊豆半島の東海岸には「石丁場」と呼ばれる江戸城築城石の採石場の痕跡が点在しており、矢穴(鉄製の矢を差し込んで石を砕く穴)が残る巨石が今も横たわっている(PIXTA)

本丸の建設は1606(慶長11)年から開始し、完成した本丸には前年に将軍職を継承した2代秀忠が住んだ。天守も建てられた。詳細は不明だが、『見聞軍妙』には「雲に届くように高い」天守であり、「雪山のように真っ白い姿」だったとある。この記述から、白漆喰を施した白亜の城だったと考えられる。

また、『江戸始図』(えどはじめず)や『慶長江戸絵図』など、初期の江戸城を描いた史料によると、戦闘を意識した要塞だったこともわかっている。秀吉の大坂城を凌ぐ規模だった。これは、政権が豊臣から徳川へ移ったことを天下に示す狙いがあった。

慶長13年作成の『慶長江戸絵図』。家康が幕府を開いて間もない頃に描かれたものとされ、城と周辺にある内曲輪が見える。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
慶長13年作成の『慶長江戸絵図』。家康が幕府を開いて間もない頃に描かれたものとされ、城と周辺にある内曲輪が見える。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

1614(慶長19)年には二の丸、三の丸、西の丸まで拡張され、徳川将軍の城が完成する。

京都における幕府の政治拠点・二条城

江戸城が武家の頂点を示すなら、二条城は京都において徳川の権勢を見せつける城だった。

1603年に完成し、家康は同年の将軍宣下の際、二条城から京都御所に参内し、拝賀(任官を得て謝辞を述べる)している。

賀儀(祝辞を受ける)の際に朝廷関係者の訪問を受けたのも二条城だ。
家康・秀忠・家光の3代までは、賀儀を二条城で行っている。

城の形式は平城(平地に立つ要塞)で、五重六階の天守を囲む水堀や土塀・多聞櫓など、実戦的な構造も随所に見られた。

一方、築城当初は現在の城の東半分を占めていたに過ぎなかったことなどが発掘調査で判明しており、規模は小さかったと考えられている。

家康死後の1625(寛永2)年になると、城は大きく変わった。天皇の行幸(外出して訪れる)の地として東大手門が建てられ、当時の後水尾(ごみずのお)天皇はこの門から城に入った。

つまり、京都における儀式典礼のための城となり、政(まつりごと)の中心、泰平の世の象徴という色彩を強く帯びていくのである。

二条城の東大手門。現存する門は1663(寛文3)年に修築された2階建ての櫓門だが、後水尾天皇の行幸時は現在と違った姿だった。PIXTA
二条城の東大手門。現存する門は1663(寛文3)年に修築された2階建ての櫓門だが、後水尾天皇の行幸時は現在と違った姿だった。PIXTA

将軍が京都に上洛した際の宿泊所としても予定されていたが、将軍在職中に滞在したのは前述の草創期3代と、幕末の14代家茂、15代慶喜の5人だけである。

そして慶喜が1867(慶応3)年、二条城で大政奉還を諸大名に伝達し、幕府終焉の地として名を残すことになる。

現在は元離宮二条城として世界遺産登録されている。

バナー写真 : 現在の岡崎城は、1959(昭和34)年に建てられた復興天守が地元の名所となっている。この天守は1617(元和3)年、譜代の本多康紀が建てた天守を元にしたもので、家康時代に天守はない(PIXTA)

参考文献

  • 歴史人2022.8月号『徳川家康 天下人への決断』 / ABCアーク
  • よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書 / 学研プラス

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