島民の2割が移住者:眠った「宝物」を探せ!若者を引き付ける隠岐・海士町

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日本海の島根沖に浮かぶ隠岐諸島の一つ、海士(あま)町。かつて人口流出と高齢化で無人島化さえ危惧されたが、今では若い移住者が増え続けて人口の2割を占める。移住者と地元の人々が交わり、活気がよみがえってきた。一体この島に何が起きたのか。

八方ふさがり

海士町(中ノ島)に行くには、鳥取県の境港(さかいみなと)からフェリーで約4時間。あるいは大阪・伊丹空港から、隠岐諸島で一番大きな島後(どうご)まで空路で約40分、そこから船で約1時間揺られてようやくたどり着く。秋から冬にかけ日本海は荒れ、欠航はざら。海士町は、日本海に浮かぶ小さな島だ。

隠岐諸島

鎌倉時代の後鳥羽上皇の配流(はいる)地として絶海の孤島のイメージが浮かびがちだが、実際は自然環境に恵まれた美しい島だ。透明度の高い海に囲まれ、ユネスコの「世界ジオパーク」に認定されただけあって、起伏が激しい。山間部を進むと、突然平野が開け水田が目に飛び込んで来る。

高台からの風景。左奥が知夫里島、右奥が西ノ島(筆者撮影)
高台からの風景。左奥が知夫里島、右奥が西ノ島(筆者撮影)

水田と里山の風景(筆者撮影)
水田と里山の風景(筆者撮影)

だが、離島の宿命だろうか。戦後、若い世代の流出が激化し、人口は減少し続けた。公共事業で生き延びてきた分、債務も膨らみ、財政はひっ迫した。2000年ごろから「平成の市町村合併」の波が押し寄せ、周辺2島(西ノ島町、知夫村)との合併圧力が国や県から掛かったが、「陸続きでない島同士が合併しても利点はない」として拒否。いよいよ八方ふさがりとなった。

海士町の人口推移

自立へ

島の経済が行き詰る中、2002年の町長選で「改革派」と目された町議の山内道雄氏が初当選。地縁・血縁がものを言う町長選に新風を吹き込んだ。山内氏は04年、海士の生き残りをかけた「自立促進プラン」を策定。町役場の人件費を大幅にカットし、その分を水産・畜産など地場産業の高付加価値化や子育て支援に回した。

過疎に悩む多くの地方自治体も、この種の改革に取り組んでいるものの、なかなか成果が上がらないのが実情だ。20年近くかけて息を吹き返してきた海士町では、何がうまく行ったと考えられるのだろうか。

山内氏の下、町役場で産業振興を手掛けていた大江和彦氏は18年、町長を継いだ。その大江氏は山内町政時代を振り返り、「危機感の強さだけはほかのどこにも負けなかった」と言う。「町の三役だけではなく、職員たちが『町の未来の先行投資に』ということで、自ら給与カットを申し出てくれた。島民には『町役場の本気度が見えた』と映ったのではないか」。町民に感謝されるようになり、改革を受け入れる素地が生まれた。

海士町の大江和彦町長(同町提供)
海士町の大江和彦町長(同町提供)

人件費削減が「守り」だとすれば、「攻め」の改革は外部の目を取り入れ、島に埋もれた資源、いわば「宝物」を徹底的に発掘し商品開発につなげたことだ。「宝の持ち腐れというか、われわれでは隠れた資源の価値に気付きにくい。発見してくれるのは島外の『よそ者』だ」と大江町長は言う。

当初は海士町版の地域おこし協力隊である「商品開発研修生」がその担い手だった。その後も町は「あなたの力を生かしてほしい」と転職サイトなどで積極的に情報を発信し、成功体験が積み上がるにつれ、移住者が徐々に増えて行った。移住者の生活支援に向け、町も子育て支援金や住宅を提供。その主な財源は、町職員が返上した給与だ。

(左)商品開発研修生が生み出した「さざえカレー」は歯ごたえが楽しい(右)名産の隠岐牛ステーキ。公共事業が減少する中、地元の建設業者が畜産に新規参入した(筆者撮影)
(左)商品開発研修生が生み出した「さざえカレー」は歯ごたえが楽しい(右)名産の隠岐牛ステーキ。公共事業が減少する中、地元の建設業者が畜産に新規参入した(筆者撮影)

移住者用の定住住宅(筆者撮影)
移住者用の定住住宅(筆者撮影)

「宝探し」

移住ブーム1期生とも言えるのが、2005年に大阪から移り住んだ石田大悟さん(42)。それまで勤めていた会社のブラック体質に嫌気が差し、転職サイトの「『島の宝探しをしませんか』のうたい文句に心をぶち抜かれた」。海士町について「カイシ?変な名前だな」程度の知識しかなかったが、島で会った面接官の熱さに圧倒されたという。

職場は、水産物の鮮度を保ったまま瞬間凍結する「CAS」技術の加工施設。海士町の水産物は鳥取県の境港に運ぶまで輸送コストが掛かり、鮮度も低下して買い叩かれることが多かった。名産のカキや白イカの鮮度を保つ技術を取り入れ、「売れる商品」の開発に賭けた。第三セクター「ふるさと海士」運営の町肝いりの事業だ。

白イカを瞬間凍結する「Cells Alive System」加工施設(海士町提供)
白イカを瞬間凍結する「Cells Alive System」加工施設(海士町提供)

おかげで白イカの手取りは3倍近く増えたと言われ、石田さんは「単純作業だったけど、一つ一つの作業が町おこしにつながる手応えがあり、友人にも胸を張って説明できるようになった。それが自分の宝物かも」と振り返る。今は新たな挑戦として、第三セクター運営のホテルEntôで働いている。

ホテルEntôの前に立つ石田大悟さん(筆者撮影)
ホテルEntôの前に立つ石田大悟さん(筆者撮影)

干しナマコも、移住者が発掘した宝物である。05年、海士町の中学生との交流事業を通じて、当時、一橋大学の学生だった宮﨑雅也さんは町がすっかり気に入った。金融機関の就職内定を蹴ってまで海士町で漁業をやりたいとして移住。特産のナマコを買い叩かれないよう、中華料理の高級食材である干物に加工して対中輸出することを思い付く。中国への留学経験がものを言った。

しかし、それには加工施設が欠かせず、国の助成を受けても町から7000万円の支出が必要だった。「個人の事業に貴重な税金は使えない」として、07年度予算案は議会で猛反対に遭った。当時、町役場の産業振興担当だった大江氏は「宮﨑君が成功したら中国から多くのおカネが入って来る。その分は地元の漁師にも分配するから、みんなの所得が上がるんですよ」と議会を説得、ようやく予算化にこぎ着けた。今では干しナマコは町の貴重な収入源だ。

「たじまや」の干しナマコ工場(海士町提供)
「たじまや」の干しナマコ工場(海士町提供)

CAS技術の加工施設といい、干しナマコの加工施設といい、離島の小さな予算から支出するには覚悟が要っただろう。座して待つのではなく、積極的な投資が果実を生んだと言える。

口コミやSNSなどで、移住先駆者の評判が広まり、後を追って若いチャレンジャーが続々やって来た。改革元年の04年から21年までの移住者は計873人。うち半分近い414人が今も島に残り、人口(21年3月末時点で2212人)に占める割合は18.7%に上る。人口減にも歯止めが掛かり始め、年齢構成は若返った。

移住者数(累積)の推移

高齢化で後継者難の中、移住者はさまざまな分野で貴重な戦力となり、島民も「よそ者」扱いせずに受け入れてきた。「『チーム海士』で働いている感覚があります。みんな一緒にやりたいし、島に恩返ししたい」と石田さん。ちょっとしたきっかけで移住してきたが、今やすっかり「島民」になっている。移住とは、その土地に根差して働くことだと感じさせる。

海士町北部の豊田漁港(筆者撮影)
海士町北部の豊田漁港(筆者撮影)

半官半X

「小島めぐみと申します」。名刺交換をした相手の女性の名刺の肩書は、「海士町役場交流促進課/半官半X特命担当」とあった。「半官半X」の意味を尋ねると、「Xは地域のためになることなら何をやってもいいということです。役場職員がホテルEntôでシーツを替えたり、アイロンをかけたりという仕事もしています」

これは海士町独自の「公務員働き方改革」だ。そこに込められているのは、「パソコンを使って国や県の決められた業務をやるのが仕事だと思い込まないで欲しい。地域の課題は現場にあり、地域のお手伝いのためならば、率先して『副業』を」(大江町長)との思いだ。確かにお店や島の玄関口施設「キンニャモニャセンター」など、あちらこちらで役場職員の姿が目に付く。

小島めぐみさん(左)、小島さんの名刺(右)=筆者撮影
小島めぐみさん(左)、小島さんの名刺(右)=筆者撮影

小島さんは2022年4月に神奈川県から移住してきたばかり。以前は観光業界で地方の観光振興をサポートしており、限界を感じていた。海士は物価が高くても家庭菜園で野菜を作ったり、近所からおすそ分けもあったりするし、地元の人々が親切なため、生活や子育ての環境も良いと実感している。

最近ではコロナ禍でリモートワークが定着したことから、東京の企業に勤めながら、ブドウを栽培してワイン造りを計画している人が出て来た。

「海士町地域活性化企業人」の肩書を持つ夏川戸大智さんは、町とともに浜辺のグランピング事業を進めている(筆者撮影)
「海士町地域活性化企業人」の肩書を持つ夏川戸大智さんは、町とともに浜辺のグランピング事業を進めている(筆者撮影)

町ではこうした移住者の受け入れに限らず、近年はサポーター作りにも力を入れている。大江町長は「今までは主に『意識の高い人』が住み着いてくれた。今後は肩肘張らずに気軽に一度訪れてほしい」と話す。サポーターにさえなってくれれば、どこに住もうと海士町の産品購入やふるさと納税などを通じて、経済的なつながりは確保できる。こういう概念を「関係人口」と呼び、島を知ってもらおうと、3カ月~1年の「大人の島留学」制度を始めた。

「ないものはない」

町のキャッチフレーズは「ないものはない」だ。「ないものねだりするな。十分じゃないか」という意味と、「欲しい物は全てそろっている」との意味がある。過剰なほどモノやサービス、情報にあふれた大都会。その便利さを享受するために、かえって振り回されて、ゆったりとした時間や人との関わり合いを失っていないか。海士に移り住む人々は無意識のうちに、カネや数字では測れない「豊かさ」や「やりがい」を求めているように思われる。

話せばきりがないほど、この町は物語にあふれている。これらは一朝一夕で成し得たことではなく、20年近い歳月をかけて、島の危機感と島に引き寄せられた若者の意欲が融合し、結実した成果だ。もちろん、お年寄りが多いのに診療所しかないといった医療・福祉の問題も残されている。

少子高齢化に過疎化、活力低下と、日本の将来を暗示するかのような環境に置かれてきた海士。「不便は知恵を生む。ここでのチャレンジは日本の未来を切り開く手本になるはずだ」。自身も移住者である町役場の人づくり特命担当、豊田庄吾さんはこう言い切った。

豊田庄吾さんの話に聞き入る東京都小笠原村議会の人々。海士町には過疎に悩む自治体から視察者が絶えない(筆者撮影)
豊田庄吾さんの話に聞き入る東京都小笠原村議会の人々。海士町には過疎に悩む自治体から視察者が絶えない(筆者撮影)

バナー写真:海士町のレインボービーチから望む風景(筆者撮影)

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