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白川優子:「国境なき医師団」の看護師として伝えたいこと
[2018.08.15]

1971年設立の国際NGO「国境なき医師団 (MSF)」は、世界70数カ国で医療・人道援助活動を展開する。MSFからイラク、シリア、南スーダンなどの紛争地に看護師として派遣され、その体験を『紛争地の看護師』(小学館)として刊行した白川優子さんにインタビューした。

白川 優子

白川 優子SHIRAKAWA Yūko1973年埼玉県出身。「国境なき医師団」看護師。高校卒業後、4年制(当時)の坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学。96年卒業後、埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に働く。2004年オーストラリアン・カソリック大学看護学部入学。卒業後は約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。10年「国境なき医師団に参加登録、以後、手術看護師として17カ所の紛争地に派遣されている。

7歳の時にテレビで見た「国境なき医師団」(Médecins Sans Frontières= MSF)のドキュメンタリーが、白川優子さんの人生を大きく変えた。自分も将来人道援助の仕事に関わりたい。その憧れは30年後に現実となり、2010年、MSFに「手術看護師」として参加登録。この8年間で紛争地への派遣は17回を数える。

白川さんの初の著書『紛争地の看護師』は、イラク、イエメン、シリア、南スーダン、パレスチナ・ガザ地区などの紛争地の過酷な現場での医療活動と、MSFの海外派遣・現地スタッフ、患者たちとの交流がつづられている。7月末、イラクの都市モスルへの短期派遣から戻った白川さんに話を聞いた。

2015年、イエメン北部のMSFが支援している病院で現地の人々と。病院は空爆で一部が崩壊した @MSF

モスルの激しい戦闘の中で

過激派組織「イスラム国」(IS)に3年間にわたり支配されたモスルは、イラク軍などによる奪還作戦の末、2017年7月に解放された。白川さんは、戦闘さなかの現地に2回派遣された経験を持つ。

「初めてモスルに入ったのは、奪還作戦が始まった頃で、2回目が7カ月後(17年6月)の戦闘が一番激しい時期でした。空爆や地上から攻め込むさまざまな勢力が入り乱れ、その隙間を縫うように逃れてきた患者たちの医療に当たりました」と白川さんは振り返る。

戦闘で街の中心部は破壊され、多くの住民が家を失った。道路、発電所、水道などのインフラや病院も壊滅状態。そんな状況でどうやって医療活動を行うのだろうか。

「まず、医療活動をする場所にどうやってたどり着くか、医療をどうやって届けるかを考えなければなりません。適当な建物がそこになければ、テントやコンテナの仮設病院を開設します。そして、物資、薬剤が限られている中で戦況を読みながら、どれだけ患者の被害が予想されるか、薬をどのようにどんな分量で使っていくかを考えます。長期的に治療をどう継続していくか、全ての状況を考慮して判断しなければなりません」

1度目の派遣では、モスルの北側、クルド人自治区内の広大な砂漠にテント病院を建てた。目の前には前線へと続く一本道がのびている。負傷した市民からはあまりにも遠かった。7カ月後の派遣では、一足先に解放された東モスルにMSFの拠点が置かれ、チグリス川を挟んだ反対側、西モスルで発生する被害に対して医療活動を行った。運び込まれた患者の中には、両親が自爆テロで亡くなったIS戦闘員の少女もいた。親兄弟、友人をISに殺されたイラク人スタッフたちがその子をいたわり、心を込めて看護する様子を、白川さんは著書に記している。

奪還されたモスルから帰国して数日後には、「ISの首都」シリアのラッカに向けて出立した。ラッカでは5万人の市民が「人間の盾」となって身動きが取れない状態だった。不眠不休で地雷や空爆で重傷を負った患者の対応に追われたが、運ばれてくる途中で絶命する人も多かった。

2017年、イラク・東モスルで紛争に巻き込まれた男の子を処置 ©MSF

空爆だけではない危機

MSFの海外派遣チームの人数は決して多くない。「現地でのセキュリティーの問題もあり、紛争地に大勢のスタッフが一斉に入ることは難しい。例えば外科医、麻酔科医、場合によっては産科医なども加えて、海外派遣スタッフは8人から10人程度です。その中には物資調達や施設・機材管理などを担当するロジスティシャン、人事・財務担当のアドミニストレーターもいます」

現地スタッフの存在も重要だ。MSFがいなくても、現地の人たちが自分たちで医療が継続できるように技術供与することはミッションの一部でもある。「でも、せっかく軌道に乗り始めたところで、たった一つの空爆によって全てがゼロに帰してしまう。病院が戦争に巻き込まれることは多々あります。誤爆もありますが、人が集まる場所として意図的な標的とされるのです」

紛争地では空爆や銃撃戦に巻き込まれる危機と常に隣り合わせだ。それ以外の危機もある。気温50度の炎天下の南スーダンでは飲用水が底をつき、ナイル川の水を飲むしかなかった。消毒したとはいえ、たくさんの遺体が流されていた川の水を飲むのは大きな抵抗があった。「でも、あの時はナイルの水を飲まなければ死ぬ状況だったので……。水の確保は本当に大変です」

飲み水だけではなく食料にも事欠く状態で、体重は8キロ減ったそうだ。

2014年、南スーダンで。避難民の赤ちゃんの状態をチェックする ©MSF

オーストラリアでの生活に見切りをつけて

少女の頃に抱いた夢とはいえ、過酷な紛争地での仕事は憧れや情熱だけでは務まらない。

「私は26歳の時にMSF参加へ一歩踏み出そうとしましたが、英語の壁があり、結果的には参加が36歳になりました。でも紛争地の現実は、若い時の情熱だけではつぶれてしまうほど厳しい。プロフェッショナルとして、人間としての経験を十分に積んだ30代、40代の人材が長くコミットすることが望ましいと思います」

「天職」と呼ぶ看護師の仕事に就いた白川さんは、MSFが1999年にノーベル平和賞を受賞したニュースに、改めて参加の意欲を燃やした。だが、スタッフ募集の説明会に参加して英語力ゼロでは参加は無理と諦める。その後、留学資金をためてオーストラリアのメルボルンに語学留学、現地の大学の看護科に進み、最終的にはロイヤル・メルボルン病院で手術看護師としての実績を積む。仕事に慣れ生活が安定した頃、今が潮時と2010年 に帰国、間もなくMSFの海外派遣スタッフに加わった。

「私の英語力は完ぺきとはいえません。でも現地で必要とされるのは言葉の流ちょうさよりも、コミュニケーション力で、私の得意とするところです。多文化・多民族のオーストラリアでいろいろな英語に鍛えられたことも役に立ちました」

MSFの手術看護師という立場は、手術中に医師のサポートをするだけではなく、現地スタッフの指導を含めた人事管理や、臨機応変にあらゆる判断を求められる看護師長の役割を担う。チームの海外派遣メンバー、現地スタッフとの意思疎通はもちろん、何よりも患者やその家族とどう接するかが「重要なテーマ」だと言う。

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