作家デイヴィッド・ピース:占領下の日本で起こった歴史ミステリー「東京3部作」が完結

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東京在住で英国出身の作家デイヴィッド・ピース氏は、『TOKYO REDUX 下山迷宮』を2021年8月に刊行した。これにより戦後、米国占領下の東京を舞台に、実際に起きた犯罪事件を通して日本社会を描いた、東京3部作がついに完結した。本シリーズの執筆のきっかけや犯罪小説が果たす社会的役割についてピース氏に話を聞いた。

デイヴィッド・ピース David PEACE

1967年、英国ヨークシャー生まれ。1994年から東京在住。2003年、文芸誌『Granta』が選ぶ若手英国作家ベスト20に選ばれる。『GB84』は英国で最も伝統ある文学賞、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞した。他の作品に東京三部作(『TOKYO YEAR ZERO(トーキョー・イヤー・ゼロ)』『占領都市 TOKYO YEAR ZERO Ⅱ OCCUPIED CITY(オキュパイド・シティ)』『TOKYO REDUX(トーキョー・リダックス)下山迷宮』)、『Xと云う患者 龍之介幻想』などがある。

下山事件とケネディ大統領暗殺事件の類似点

1949年7月、国鉄総裁下山定則が常磐線北千住~綾瀬間の線路脇で、轢(れき)死体となって発見された。自殺か他殺か不明のまま捜査は打ち切られ、1964年に時効を迎えた。亡くなる前日、下山は10万人規模の大量解雇計画を発表していた。この解雇計画はGHQ(連合国軍総司令部)の方針で、労働組合や共産党の影響力を抑制しようという意向が強く働いていた。

1949年7月、下山定則国鉄総裁の遺体収容作業=東京都足立区(共同)
1949年7月、下山定則国鉄総裁の遺体収容作業=東京都足立区(共同)

最新作『TOKYO REDUX 下山迷宮』でピース氏は下山事件の謎に迫る。

「下山事件は謎多き事件という点で、ケネディ大統領暗殺事件とよく似ています。当初、下山定則は解雇に反発する労働組合員か共産主義者、あるいは極左思想者によって殺されたと考えられていましたが、日米両政府は労働組合や共産主義者を弾圧する口実に事件を利用しました」とピース氏は語る。

決定的な証拠がなく、明らかな容疑者もいない。下山の死に対して、諸説飛び交った下山事件は、ノンフィクション作品のテーマになり、小説や映画、漫画でも取り上げられた。中でも作家・松本清張が1960年に発表したノンフィクション『日本の黒い霧』が代表例だとピース氏は指摘する。この作品により、下山は米国と日本の右翼の陰謀により殺されたという説が広まった。

『TOKYO REDUX 下山迷宮』は東京3部作の3作目となる。三部作すべてが戦後の米国占領下時代の実在の事件を基にしている。

1作目『TOKYO YEAR ZERO』は小平義雄による連続婦女暴行殺人事件をモチーフに、2作目『占領都市 TOKYO YEAR ZERO Ⅱ OCCUPIED CITY』は、帝国銀行の社員が青酸化合物を飲まされ毒殺された帝銀事件が題材となっている。

なぜ占領下の東京を舞台に選んだのか

ピース氏は1994年に初来日した。その後、母国英国に戻った2009~11年の2年間を除き、日本で生活している。来日のきっかけは偶然の出来事だった。当時トルコのイスタンブールで英語を教えていたが、経済状況が悪化したため、トルコを離れざるをえなかった。そのとき、ルームメートの一人が東京への移住を進めてくれた。

来日した当初は、日本に関する知識は乏しかったが、日本文学翻訳者・エドワード・サイデンステッカーによる『立ちあがる東京―廃墟、復興、そして喧騒の都市へ』にすっかり魅了された。

英国を舞台にした著作で既に小説家としての地位を確立していたピース氏。新しい故郷日本について知れば知るほど、日本について書きたくなった。1984年-85年に起きた英国の鉱山労働者のストライキをモチーフにした小説『GB84』を日本語に翻訳出版できないか、という相談を文藝春秋の編集者・永嶋俊一郎氏にしていた時のこと。東京を舞台にした作品の構想を永嶋氏に明かしたところ、話はとんとん拍子に進み、永嶋氏は資料収集をはじめ、古い資料を英語に翻訳するなど、ピース氏の執筆を支えた。

現代の東京は先端都市だが、過去には1923年の関東大震災、45年の東京大空襲といった壊滅的な状況にあったこともある。ピース氏はこうした時代を強く意識していた。3部作の1作目『TOKYO YEAR ZERO』は、46年の荒廃した東京が舞台だ。

「戦争で生き残った人々が、いかに生活を再建していったのかを描きたかった」と執筆の動機を語る。

歴史的事件を題材にしたもう一つの理由は、戦後の日本を形作るうえで、これらの事件が社会にどのような影響を及ぼしたのかを描きたかったからだ。

「占領時代は1945~52年でした。歴史的には短い期間ですが、現代日本を理解するには当時の日本社会の変革を知る必要があります。今日の政治構造は本質的にこの期間に形成されたからです」

この時代、市民は生活必需品の不足に苦しみ、国はGHQに占領される──混沌とした不安な世相が東京3部作のテーマとなる悲惨な犯罪事件を生み出した。

小平事件と帝銀事件の背景をピース氏はこう分析する。

「小平義雄による連続殺人事件は、小平が女性たちに『仕事をあっせんしてあげる。食料をあげる』といった甘言で女性たちを誘い出し、殺害しました。帝銀事件が起こった時は、疫病が蔓延(まんえん)しており、人々はチフスにかかるかもしれないという恐怖におびえていた。このような中で、東京都の衛生課員と名乗る人物が現れ、『GHQからの命令で、伝染病予防のため、薬を飲んでください』と銀行員に指示したのです。従わざるをえない状況でした」

下山事件については、「下山総裁はGHQからの指令で大量の国鉄職員を解雇したのです」と断言する。

下山事件を3つの時間軸で描く

3部作のうち最初の2作品は2007、09年に出版されたが、3作目『TOKYO REDUX 下山迷宮』は10年以上経過した21年に出版された。ピース氏は下山事件に関する膨大な資料を読み込み、さまざまな仮説を検証するためにかなりの時間を費やした。

「当初は、1949年のことだけを書くつもりでしたが、下山事件がいかに変化していったのか、そして人々の事件への認識がどのように変化したのかについて伝えるためには、3つの時代を描く必要があることに気付きました」と語る。

『TOKYO REDUX 下山迷宮』は3つの時代に分けられている。第1部は下山事件が発生した1949年。第2部は未解決のまま時効を迎え、戦後復興の象徴ともいえる東京五輪が開催された1964年。第3部は1988年から89年を舞台に、昭和天皇崩御により長きにわたって続いた昭和時代の終焉を描いている。

『TOKYO YEAR ZERO』では頭から離れないような独特な擬音の反復を多用し、『占領都市 OCCUPIED CITY』では実験的な文体を試行。『TOKYO REDUX 下山迷宮』では明瞭で正統的な言葉遣いで書かれている。いずれも作品の最後で犯人が明かされ、読者が驚くという、いわゆる定番のミステリージャンルには収まらない構成、そして、やや複雑な文体で物語を紡いでいる。

『TOKYO REDUX 下山迷宮』は国内外の読者に広く受け入れられている。作品中の印象的なキャラクターの一人が、ドナルド・ライケンバックだ。老齢の翻訳家だが、かつてはCIA(米中央情報局)で諜報員をしていた。第3部で語り手を担うライケンバックは、昭和時代を思い出し、悲しみにふける、哀愁漂うキャラクターだ。このキャラクターは日本文化に精通する、ドナルド・キーン、ドナルド・リチー、エドワード・サイデンステッカーといった人たちの人生や作品からインスピレーションを受けたが、実在の人物ではなく、あくまでフィクションであるとピース氏は言う。

『TOKYO YEAR ZERO』の執筆リサーチをしていた時、ピース氏は実際にサイデンステッカーとリチーに会ったことがあるという。二人とも占領時代に来日している。

次なるテーマは平成の日本社会の暗部

小説の舞台が日本であろうと英国であろうと、ピース氏の小説は実在の事件を題材にしている。フィクションの果たす役割は、歴史を振り返ることなのだろうか?

「フィクションの役割は、歴史に光を当てることです。そして、読者をあたかも当時の世界にいるかのように引き込むのです。これをノンフィクションでやるのは難しい。私はまず自分自身を当時の世界に置きます。それがうまくいくと、読者も当時の世界に身を置くことができるのです」

ピース氏は犯罪小説が社会で果たす役割について、「犯罪小説家が、犯罪が起こった当時や事件現場を詳細に調べることで、当時の社会が見えてくる」と強調する。その一方、犯罪がエンターテインメントだけに使われるのは物足りない、と言う。

「小説を通して、社会の本質や意義を主張している左翼やリベラルな立場の犯罪小説家はたくさんいます。松本清張はまさにこの分野の代表的な作家です」

ピース氏が影響を受けた作家として名前を挙げたのが、ジェイムズ・エルロイと芥川龍之介という異色の組み合わせだ。

「芥川は海外でもっと高い評価をされるべきです」と言う。

『Xと云う患者 龍之介幻想』(文藝春秋)は芥川作品の翻訳、リライト、パスティーシュ(模倣)が散りばめられている作品だ。ピース氏はこの作品を『占領都市 OCCUPIED CITY』と『TOKYO REDUX 下山迷宮』の間に書いた。つまり、芥川は東京3部作にも影響を及ぼしていたのだ。

現在、ピース氏は元英国首相のハロルド・ウィルソンについての作品に取り組んでいる。いずれ、日本についても書くつもりだという。ある友人が「昭和時代の最後を描くことは、平成時代の最後を描くことと同じだよ」とピース氏に言ったという。
ピース氏は平成時代のほとんどを日本で過ごした。「平成の日本社会には、暗いトンネルや抜け穴が多数存在します。いつか平成の日本社会の暗部を探りたい」と意欲を示す。

(原文英語。バナー写真:デイヴィッド・ピース氏。文藝春秋提供)

『TOKYO REDUX 下山迷宮』

デイヴィッド・ピース(著/文)黒原 敏行(翻訳)
発行:文藝春秋
四六判: 440ページ
価格:定価 2,750円(税込み)
発売日:2021年8月24日
ISBN: 978-4-16-391423-7

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