特集 日本の戦後70年
国交正常化後50年—「フラット化」する世界の縮図としての日韓関係

木村 幹【Profile】

[2015.01.21] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | Русский |

戦後70年を迎えた2015年は日韓基本条約締結50周年でもある。歴史認識問題などで機能不全に陥った日韓関係を国際関係の構造的変化の中で捉え直し、新たな局面を切り開く道を考察する。 

日韓基本条約以前は「世界地図が書き換えられた」時代

日韓関係にとって2015年は、1965年に日韓基本条約が締結されてから50周年の節目の年にあたる。とはいえ、一言で50年と言ってもその長さを理解することは容易ではない。そこでこの年月の長さを理解するために、1965年から逆に50年をさかのぼって考えてみたい。1965年から50年前、1915年は日本が朝鮮半島への植民地支配を開始してわずか5年後にあたっている。朝鮮半島での最大の独立運動である三一運動の勃発はそれから4年後の1919年のことである。

世界に目を転じれば、欧州は第1次世界大戦の只中にあり、そこでは英国、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアという、古い欧州の「5大国」が死闘を繰り広げていた。これら「5大国」のうちの3カ国、すなわち、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアでは、依然として西洋的民主主義とは程遠い、古い政治体制が維持されており、アメリカはいまだ蚊帳の外に置かれた新興大国にすぎなかった。アジアやアフリカの大半は西洋諸国の植民地支配下にあり、有色人種に対する白人の優位が当然の様に主張された時代だった。

しかしそれから50年間で、世界は大きく変化した。第1次世界大戦を終えた欧州ではロシア革命によりソビエト連邦が成立し、オーストリア=ハンガリーの解体とも相まって、東欧に新たな独立国家が多数誕生した。第1次世界大戦で敗れたドイツは、混乱の20年を経て、やがて日本とイタリアと共に第2次世界大戦を引き起こす。勃発した第2次世界大戦は、主たる勝者である米ソ両国の台頭を引き起こし、やがて世界は冷戦体制へと突入した。同じ大戦で疲弊した英仏両国は植民地帝国を断念し、今度はアジアやアフリカで無数の新興国家が生まれることとなった。東アジアもその例外ではなく、朝鮮半島や東南アジアの国々が独立し、中国では中華人民共和国が成立した。1915年から65年までの50年、それは文字通り、「世界地図が書き換えられた」時代だった。

「枠組みの変化」から先進国優位性消失の「実質の変化」へ

この様な1915年から65年までの50年間と比べた時、続く1965年から2015年までの50年間の変化は小さなものに見える。とりわけ、日韓両国が位置する東アジアでは、ベトナムの統一が目立つ程度であり、基本的な国境線はほとんど変化していない。欧州では国際的枠組みの激変を引き起こした冷戦終焉も、東アジアでは韓国と北朝鮮、中国と台湾という二つの「分断国家」の枠組みに影響を与えなかったからである。

だがその事は、この50年間、世界あるいは東アジアで、大きな変化が存在しなかった事を意味しない。1965年に先立つ50年間の変化が国境の変容を伴う「枠組みの変化」だったとすれば、1965年以後の50年間に展開されたのは、同じ枠組みの中での「実質の変化」だった。すなわち、1965年の世界では、旧宗主国を中心とする先進国が依然として圧倒的な力を持ち、旧植民地諸国を中心とする発展途上国は経済的にも政治的にも、これに対する従属的な位置に置かれていた。

対して、2015年の世界では、かつての様な先進国の圧倒的優位はもはや存在しない。1970年代に成立したG7(先進7カ国)の枠組みが、G20(先進20カ国・地域)にとって代わられた様に、経済面はもちろん、軍事面においてさえ、古い先進国の他に対する圧倒的な優位は見られない。そもそも今日では、先進国と途上国の間の線引きがどこにあるのかでさえ定かでない状態になっている。

“世界の縮図”を映し出す正常化以後の日韓関係

当然ながら、1965年から50年間の日韓関係も同じ世界史的な潮流の中にあった。否、第2次世界大戦以前の世界における「最後の帝国主義列強」であった日本と、1980年代以降の発展途上国の経済的台頭の先鞭をつけた「NIEsのフロントランナー」であった韓国の関係は、1965年以後の世界の縮図とも言えるものだった。それは1965年時点での両国の状況を今日のそれらと比べれば分かりやすい。

1965年の日本は、前年に「非西洋国家」として初めてのオリンピックを開催し、「先進国クラブ」と呼ばれたOECDへの加入を果たしたばかりだった。東京と大阪間にはすでに新幹線が走り、高度経済成長の真っ只中、名目成長率は10%を大きく凌駕し、3年後の1968年には、その名目国内総生産(GDP)は西ドイツを抜いて世界第2位を占めるまでになっている。経済的繁栄の追い風を受け、国会で安定多数を占めた自民党が、いよいよ本格的な長期政権へと突入しつつあった頃である。

他方、同じ時期の韓国は、朝鮮戦争休戦から12年を経たこの時点でも、依然としてさまざまな苦難の中にあった。1965年の一人当たり名目GDPは100ドルをどうにか越えた程度、その水準は日本の7分の1程度にしかすぎなかった。より深刻だったのは、貿易構造だった。同じ年の韓国貿易は、輸出1億7500万ドルに対して輸入が4億6300万ドルという、大幅な貿易赤字状態にあり、韓国経済は海外からの資金援助なしには成り立たなかった。

軍事面においても、北朝鮮の軍事力は中国軍撤退以後も、韓国軍を大幅に圧倒した状態にあり、にもかかわらず、同盟国アメリカの目は、朝鮮半島よりも戦争の激化するベトナムへと向けられつつあった。1961年の軍事クーデターにより成立した朴正煕(パク・チョンヒ)政権は、1963年の大統領選挙にて野党候補者に得票率にてわずか1.5%差にまで迫られるなど、国民から強い支持を受けていたとは言い難い状態にあり、政治的にも不安定な状態が続いていた。

そして1965年の日韓基本条約はこの様な当時の垂直的な日韓関係の産物だった。ベトナム戦争の激化に伴い朝鮮半島への関与を減少させつつあったアメリカは、この時期韓国への援助を削減しつつあり、韓国政府はこれを穴埋めする外貨をすぐにでも獲得しなければならなかった。だからこそ、当時の朴正煕政権は、先立つ政権における対日強硬姿勢から一変して、日本への大幅譲歩を行わざるを得なかった。結果、この条約の締結に際して朴正煕政権は、日本から獲得する外貨の金額について譲ったのみならず、その名目においてさえ日本側の要求をのまねばならなかった。すなわち、植民地支配の「賠償」という名目を捨て「経済援助」という名称でこれを受けることになったわけである。

垂直から水平へ―縮小する経済・軍事的格差

だが、この様な垂直的な日韓の関係は今日までの50年間に大きく変化した。原因の一つは経済的格差の縮小である。図1からも明らかな様に、1980年代以降の劇的な経済成長の結果、かつては極東の最貧国の一つだった韓国は、今や先進国の仲間入りを果たすこととなっている。垂直的な構造が払しょくされた事は貿易構造についても言うことができる。長らく赤字が続いてきた韓国の貿易収支は、2009年以降黒字基調が続いており、その黒字額も年々拡大しているからである。

状況は軍事面についても同様である。例えば、図2はドルベースで見た日韓台3カ国の軍事費の推移を示したものであるが、GDPに対して3%弱の比較的大きな数値を占める韓国の軍事費が、近年のウォン高の影響もあり、急速に日本の水準に近づいていることがわかる。軍事力の性格の違いはともあれ、両国の間では軍事的格差も消滅しつつあることが明らかである。

明らかなのは、この50年間に日韓関係がかつての垂直的な関係から水平的な関係へと変化したことである。だからこそ、今日の韓国では、50年前に締結された日韓基本条約に規定された「古い日韓関係」を見直そうという動きが急速に強まっている。近年、韓国の裁判所が、従軍慰安婦問題や徴用工問題等において、一見明確に日韓基本条約の条文に反するかのような判決を連発しているのも、また、朴槿惠(パク・クネ)政権が歴代の韓国の政権とは異なり、その発足当初から(下線筆者)歴史認識問題で日本に対して強硬姿勢を取っているのも、背景にこの様な日韓関係の構造的変化が存在するからなのである。

「古い日韓関係」見直しのため国際的「仲裁委員会」の設置を

さて、それでは我々はこの様な状況にどの様に対処すればよいのだろうか。最初に確認しなければならないのは、「古い日韓関係」の見直しがイコール、スタートラインに戻ってのやり直しになってはならないことである。日韓基本条約が予備会談開始から条約締結まで14年を要したことに現れている様に、領土問題や歴史認識問題という困難な課題を抱える両国の間で、新たな枠組みを作り出す包括的な条約等をゼロから作り上げることは容易ではない。もちろん、さまざまなレベルで相互依存が進展する状況の中、新たなる交渉の間、両国関係を停止することなどできるはずもない。

とはいえ、同時に確認しなければならないのは、従軍慰安婦問題や徴用工問題に関わる両国の裁判所の判断の違いに見られる様に、1965年に構築された「古い日韓関係」に対する両国の理解が絶望的なまでに乖離(かいり)していることである。両国の司法が明確に異なる解釈を下している以上、行政はこの判断に従う義務を有しており、必然的に日韓両国政府が外交交渉で議論できる範囲は小さくなる。この様な中、問題をいたずらに先延ばしにしても状況が改善する余地はほとんどない。

だとすると重要なのは、まずこの「古い日韓関係」を規定する枠組みそのものについてもう一度、両国が正面から議論する事である。とはいえ、司法判断に縛られた両国政府にできる事が限られており、だからこそ我々はここで国際社会の助けを借りる必要がある。例えば、日韓基本条約の付属協定である「日韓請求権並びに経済協力協定」には、両国の解釈が分かれた場合には、仲裁委員会を設置する事が定められており、この設置を考えるのが一案である。

日韓関係の次なるシステム構築が課題 

とはいえもしも、それが現実的には難しく、また政治的リスクが大きいと言うのであれば、これに代わる委員会等をセカンドトラックとして走らせるのも一案であろう。国際司法裁判所にせよ、仲裁委員会にせよ、国際社会における司法的仲裁機関は、著名な国際法学者や元外交官らにより構成されるものにすぎず、同じ様な人々を集めて「疑似仲裁委員会」を立ち上げる事は決して難しくない。我々はその判断を手がかりにして両国の世論や司法を説得し、両国関係を新たに再構成する事ができるかもしれない。少なくともそれは、両国の行政や司法、そして何よりも国民に自らの行っている議論が国際社会の中でどのように位置づけられるかを判断する重要な材料を提供することになるだろう。さらには、強硬な世論に押されて動けなくなっている両国政府にとって、方向転換を行うための貴重なきっかけを作ることにもなる。

ともあれ重要な事は、50年という長い月日を経て機能不全を起こしつつある「古い日韓関係」の現実に正面から向かい合い、これへの解決方法を正面から模索する事である。日韓関係は「フラット化する世界」の縮図であり、今後世界にはこれに付随する問題が多発することになる。

国際関係が大きく変化する中、古いシステムにより維持されて来た安定性を損なわず、いかにして次なるシステムを築き上げるのか。問われているのは、我々の「知恵」だと言っても過言ではない。

(2015年1月7日 記)

タイトル写真=2014年11月ミャンマーで開催されたASEAN+3(東南アジア諸国連合+日中韓)首脳会議での朴槿惠大統領と安倍晋三首相 (新華社/アフロ)

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  • [2015.01.21]

神戸大学大学院国際協力研究科教授、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。1966年大阪府生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。ハーバード大学、高麗大学、世宗研究所、オーストラリア国立大学、ワシントン大学等の客員研究員を歴任。主著に『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房/2003年、サントリー学芸賞受賞)、『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房/2014年、読売・吉野作造賞受賞)など。

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