ヤマザキマリ:異文化体験が生んだシュールな漫画家

清野 由美 (聞き手)【Profile】

[2017.10.04] 他の言語で読む : FRANÇAIS |

14歳で欧州一人旅、17歳でイタリア留学。以来、シリア、ポルトガル、米国と、ヤマザキマリはさまざまな国で暮らしてきた。そんな異文化体験を生かして、現代漫画の壁を突き破る作品を発表し続ける彼女にとって、現在の日本はどのように見えるのだろうか?

ヤマザキマリ

ヤマザキマリYAMAZAKI Mari漫画家。1967年、東京都生まれ。17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。‘97年漫画家デビュー。『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。著書に『国境のない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)など多数。シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

古代ローマの浴場設計技師が、現代ニッポンの風呂にワープ。シャンプーハットや、ケロリンの宣伝入りの風呂おけに接し、「平たい顔族」が持つ高度な文明に驚愕(きょうがく)する——。そんなナンセンスな笑いが満載の漫画『テルマエ・ロマエ』は、累計900万部以上を売り上げる大ヒットとなった。同作を原作にした邦画『テルマエ・ロマエ』(2012年公開)、『テルマエ・ロマエⅡ』(2014年公開)も、邦画の年間興行収入上位にランクイン。ブームはいまだ、記憶に新しい。

ヤマザキマリ 『テルマエ・ロマエ』の着想は、リスボンで暮らしていた時の渇望がもとになっています。夫と息子の3人で住んでいた家は、築80年の木造家屋。隙間風が入る年代モノの家で、バスルームにはバスタブがありませんでした。肩こり、腰痛と、漫画家の職業病に悩まされても、なみなみとお湯をはったお風呂に入れなかったんです。

バスタブが欲しくて、ホームセンターみたいなところで見つけた「たらい」に、お湯を張って、ちまちまと行水していましたが、そんなことでは、とても満足できませんよね、日本人としては(笑)。

ああ、バスタブ欲しい、ああ、バスタブ欲しい、とつぶやきながら、日本の銭湯や温泉への願望がアタマの中で募り、古代ローマ人と、昭和の日本人を風呂で結んでしまう、というファンタジーが誕生したのだと思います。

古代ローマ時代の浴場と現代日本の風呂文化(銭湯、温泉など)をテーマにしたコメディ漫画『テルマエ・ロマエ』。現在、8つの言語に翻訳され、世界各国で読まれている。全6巻(発行:エンターブレイン)

母親から受け継いだ自由人のDNA

リスボンは、夫であるイタリア人の比較文化研究者、ベッピ・キウッパーニの研究に伴う滞在だった。リスボンの前後には、一家でイタリアのヴェネト州、カイロ(エジプト)、ダマスカス(シリア)、シカゴ(米国)と、世界を転々としている。それ以前に、ヤマザキ自身が10代で単身、フィレンツェのイタリア国立アカデミア美術学院に留学する、という冒険に飛び込んでいた。文字通り、地球規模の越境人なのである。

ヤマザキ 「行き当たりばったり」の「出たとこ勝負」は、私の人生のキーワードです(笑)。

そもそも私の育った家庭が、母と妹との3人家族という、日本では変則的なもので、その母が、これまたユニークな人でした。「女性は結婚して家庭に入るもの」という通念が今よりも強固だった昭和の時代に、母はお見合いを拒んで、「ビオラ奏者として身を立てる」と、係累も何もない札幌に、東京から移り住んだ人。札幌交響楽団に入団するためだったんです。

そこで指揮者の父と出会ったわけですが、その父は私が幼少の頃に病気で亡くなってしまいます。それでも母はメソメソすることなく、私と2歳違いの妹を「鍵っ子」にして、稚内でも香港でも、要請があれば、どこにでも軽々と出掛けて演奏の仕事をしていました。

母子家庭とか、鍵っ子とかいう言葉は、当時はネガティブに使われていたものですが、自分の足で立って、好きな音楽の仕事に打ち込む母の姿は自由でした。そんな母の生き方を見ていたから、私も国境やジェンダーの壁にとらわれないで済んだ。「女である前に人間である」という前提で、人生を進んでいくことができたのです。

進学した東京のミッションスクールを中退し、イタリアの美術学校に留学したのは17歳の時。迷いや恐れはなかったのだろうか。

ヤマザキ まったくなかったです。もともと絵を描くことが本能のように好き。「イタリアで絵を勉強するので、高校を中退します」と、学校のシスターに伝えたら、「絵では将来、食べていけませんよ」と、懇々と諭されましたが、それでも躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。

でも、イタリア留学も、きっかけは、かなり行き当たりばったり(笑)。14歳の時に、母が行くはずだったヨーロッパ旅行に行けなくなって、「代わりにあなたが行けば?」と、一人旅に送り出されたことが発端になっています。

その時、フランスからドイツに向かう列車の中で、イタリア人のおじいさんから、「どこに行って、何をするんだ?」と、声を掛けられました。その頃は、ロンドンへの美術留学を考えていて、その下調べのような心づもりもありました。そんな事情を話したら、「こんな女の子に一人旅をさせるなんて、どんな親だ!」と。そう心配して怒った後、今度は「美術を勉強するなら、イタリア以外にないだろう!!」と、強烈に推してきた。そこから、そのおじいさんと、母も含めて家族ぐるみの付き合いが始まりました。

じいさんはマルコ・タスカという、イタリアのその地域では名の知れた陶芸作家でした。マルコじいさんが亡くなった20年後に彼の孫息子(ベッピ)と私は結婚することになるのですが、まさか、そんな展開が待っているとは、その時は思いもよりません。

疾風怒濤のシングルマザー時代

ヤマザキが最初に渡った1980年代のフィレンツェには、作家、社会主義者、亡命者らが集まる書店があり、左翼の知的なアジトになっていた。シュールレアリスムから労働者問題まで話題は幅広く、パゾリーニ、カワバタ、ミシマという名前が飛び交う空間に、若いヤマザキは魅了されたという。

ヤマザキ 書店に出入りしていた「詩人」のイタリア人と恋にも落ちました。でも、その「詩人」は労働問題を熱く語っても、自分では労働しない人。私は母からの仕送りと、似顔絵描きや露店のアクセサリー売りで、何とか彼との暮らしを回していましたが、家賃が払えなくなって、アパートを締め出され、駅で一夜を過ごす、なんて経験もしました。

「詩人」と知り合った11年後には、息子を授かりましたが、息子が生まれる直前まで、一人で生活費を稼ぎ、画業にいそしみ、「詩人」の面倒もすべて見る、という生活。今から思えば、間違った母性に支配されて、完全にダメなスパイラルに陥っていました(笑)。

で、息子が誕生した瞬間に、「私がこれから面倒を見ていくのは、この子だけよ!」と、スパーンと心が決まり、親子2人で日本に帰国したのです。

この時、帰国の資金をまかなうために、独学で漫画を描き、日本の漫画雑誌の新人賞に応募。努力賞の賞金を得た。そこから、漫画家への道が始まった。

ヤマザキ それでも漫画を描いているだけでは、生活していけません。大学でイタリア語の講師を掛け持ちしたり、テレビの温泉リポーターをしたりしながら、漫画を描き、かつ、息子を育てていました。このころは私、7足ぐらい、「わらじ」を履いていたんじゃないですかね。

その「わらじ」の中に、日伊の文化交流のキュレーターという仕事もあり、イタリアと日本を行き来する中で、ベッピとの初対面がありました。それまで、互いに名前は聞いていても、会う機会はなかったんです。

比較文化を研究するベッピとは、ルネサンス時代の歴史家の話題で、すぐに意気投合しました。そういうマニアックな話題を語り合えたことが、よほどうれしかったのでしょう。日本に帰った後、ベッピからは分厚い手紙が次々と届くようになり、ある時、「ボ、ボクと結婚してくださいっ」と、切羽詰まった声で国際電話が掛かってきたのです。

その、あまりに必死な様子に気おされて、「いいよ、わかったよ、ケッコンだけでいいの? ほかにはないの!?」と、つい応じたら、そこから先は、夫と息子とともにカイロ、シリア、リスボン…と、世界を転々とする日々。また人生に波乱が訪れてしまいました(笑)。

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  • [2017.10.04]

ジャーナリスト。1960年東京都生まれ。東京女子大学文理学部卒業。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。在学中、英ケンブリッジ大学客員研究員。出版社勤務の後、92年からフリーランス。国内外の都市開発と地域コミュニティ、ライフスタイルの転換を取材する一方で、時代の先端を行く各界の人物記事に力を注ぐ。『アエラ(現代の肖像)』『朝日新聞』『日経ビジネスオンライン』などで記事、コラム、インタビュー、書評などを執筆。著書に『住む場所を選べば、生き方が変わる』(講談社)など。

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