「反抗」の大切さ
人間の自我の基本は、「イヤ」を表明することにある。自分を支配しようとしたり、侵襲してくるものに対して、「イヤ」と言ってそれを拒絶すること。これが、独立した存在の証しであり、自分の尊厳を守る出発点なのだ。つまり、自分が自分であるためには、どうしても「反抗」という要素が欠かせないものなのである。
例えば、2〜3歳の幼児に必ず認められる「イヤイヤ期」は、自我の目覚めによって生じる最初の現象だ。親が「食べなさい」と言っても「イヤ!」、「食べちゃダメ」と言っても「イヤ!」と返してくる。これは、「食べたい/食べたくない」ということが問題なのではなく、「指図されたくない」という自我の主張なのである。
「何がしたいのか分からない」という状態から自我を回復させる時にも、この「イヤ」を明らかにしていくことが重要なポイントとなる。心理的に去勢されてしまった状態で、自分に「何が好きか?」「何をやりたいのか?」といきなり問い掛けてみても、「心」は何も答えてはくれない。基本的な意思表明である「イヤ」ですら禁じられている「心」が、都合よく「〜が好き」と答えてくれるはずはないのだ。
このように、「受動的生」から「能動的生」に向かって自我を蘇生させるためには、私たちが美徳として刷り込まれてきた「謙虚さ」「従順さ」「素直さ」といったものを、一度払いのけることが必要になってくる。
哲学者ニーチェは代表作『ツァラトゥストラ』の中で、人間が成熟していく過程を「駱駝(らくだ)→獅子→小児」という象徴で語っている(第1部「三様の変化」の章)。「駱駝」は、勤勉・従順・敬虔(けいけん)・努力の象徴である。私たちは、ともすればこれが「一人前の社会人」と考えてしまいがちだが、これはまだ「自分」になっていない「受動的生」の状態なのだ。

そこで、この「駱駝」は「獅子」に変身し、これまで自分を支配・監督していた「汝なすべし」という名の「龍」を倒す。「獅子」は「われは欲す」という雄たけびを上げる。そして、この「能動的生」を獲得した「獅子」は、次に「自分」ということへのこだわりをも超克し、純粋性・創造性・遊戯性の象徴である「小児」に変身する。これが、人間の精神が成熟に向かうプロセスなのである。
残念ながら、いまだに従順で勤勉な「駱駝」を養成することを「教育」だと勘違いしている大人たちも少なくない。そんな中で、いつの間にか「受動的生」にむしばまれて自分の「心」の声が聞こえにくくなってしまった時には、「心」が小声で発する「イヤ」に根気よく耳をすまし、そこから徐々に「獅子」の反骨精神を奮い立たせるように持っていくことが必要だ。
それにはまず、何かをする時にそれが「心」の発する「やりたい」なのか、「頭」の命ずる「すべき」なのかを見分けなければならない。そしてもし、それが「頭」の「すべき」によるものだと分かったならば、自分の「心」は果たしてそれをどう思っているのかと問い掛けてみることだ。このように、ちょっとした内面的作業を心掛けることが、長い間ないがしろにされてきた「心」を尊重することなのである。そうすれば、息を潜めていた「心」は必ずや元気を取り戻して、いずれきっぱりと「われは欲す」の中身を教えてくれるようになることだろう。
(毎月一回、4回掲載)
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