柳田国男が見通していた“激変”
「いわゆる琉球三十六島の中でも、宮古は異常に歴史の進化の歩みが激しく、しかも天災地変の圧迫が強烈であって、人は悩み且つしばしば入替り、したがって言語文物の錯雑が著しい……」
民俗学者、柳田国男(1875-1962年)は晩年の著『海上の道』(1961年刊)で、宮古島についてこう描写した。
先史時代、宮古諸島は日本の縄文・弥生時代の影響を直接受けていなかったというのが定説だ。13世紀以降、渡来人の定住が本格化したといわれ、14世紀末には琉球王朝に統一された。
琉球王国は17世紀初め日本の薩摩藩の支配下に入ったが、明・清時代の中国への朝貢は続いた。明治時代の廃藩置県を経て、琉球藩から沖縄県になった経緯がある。太平洋戦争で宮古島は地上戦こそなかったものの、空襲や艦砲射撃でほぼ焦土と化した。戦後の米国統治から、沖縄県が本土に復帰したのは1972年だった。
宮古諸島には毒蛇ハブは生息していないが、天変地異の過酷な歴史がある。過去に何度も大型台風にさらされた。河川がない離島は干ばつにも苦しめられ、大飢饉や疫病に見舞われた。江戸時代、1771年(明和8年)には大地震による「明和の津波」が発生した。
今回の宮古諸島の旅で、筆者は10月10日、伊良部カントリーパーク陸上競技場での伊良部長距離会(久貝榮会長)の定例練習会に飛び入り参加した。みんなで5000メートルを完走した後、車座になっての飲み会「オトーリ(御通り)」にも加わった。
オトーリとは、一人ひとりが順番に立ち上がって口上を述べ、その度に全員で泡盛を回し飲みする宮古独特の風習だ。この日参加した十数人のうち、地元で生まれ育った人たちは少数派だった。
関山氏をはじめ歯科医、画家ら移住者、転勤族2人、観光に携わっている台湾人、筆者を含めた旅行者3人を合わせると、外来者がオトーリ参加の半数以上を占めた。様々な人たちが集まっては散じる人の入れ替わりを象徴するようなひとときだった。
みやこ下地島空港ターミナルが誕生した今年3月、宮古島では陸上自衛隊の駐屯地が開設された。地元には自衛隊基地反対論もあるが、現在の警備隊約380人に加え、2020年以降、地対空・地対艦ミサイル部隊も配備し、最終的に700~800人規模に増強する計画だ。
防衛省が宮古島駐屯地を新設したのは、中国の軍備増強や海洋進出を念頭においてのこと。離島防衛のため、抑止力を高める狙いもある。
その一方で、大陸からはクルーズ船で中国人観光客が押し寄せる。中国と微妙な関係の台湾からの観光客も少なくない。民主化を求めて大規模なデモが続く香港からも、観光客がやってくる。島内では中華圏からの人波が交錯し、複雑に交じり合う。韓国からの観光客は落ち込んでいるが、今後は欧米からのツアー客も増えそうだ。
柳田が看破していたように、宮古諸島は“激変”の時代を迎えている。外資や本土資本の流入で膨張するバブル経済に、不満や不安を覚える地元民がいるのも事実だ。それでも、宮古諸島は今も昔も、外国人や移住者たちを引き寄せてやまない。
(写真撮影は筆者)
バナー写真:宮古島の最東端に伸びる東平安名崎=2019年10月10日


