政治主導で死刑を廃止したフランス

日本は世界一ベストセラーやブームが生まれやすい国との説がある。つまり一色に染まりやすい。一極集中に付和雷同。政治権力の決定に従う傾向も強い。そうした国民性といまだに死刑制度を手放せないこととは、決して無縁ではない。

欧州で最も遅く死刑を廃止したフランスが典型だが、廃止前の世論は、むしろ死刑制度を支持する人の方が多かった。でも政治が世論を押し切って廃止を主導した。その後に国民の意識は変わる。なぜなら廃止しても治安は悪化しないからだ。多くの国はこうして死刑を廃止してきた。つまり感情より論理を優先した。しかし日本ではそれが難しい。死刑制度廃止を訴えれば、次の選挙で落選するかもしれないと考える議員が多いからだ。

この国は、市場原理(ポピュリズム)がとても強い。それはメディアの報道にも表れている。多くの人が喜ぶように、メディアは情報を取捨選択する。あるいは加工する。事件が起きれば、被害者遺族の怒りや悲しみを強調する。なぜなら視聴率や部数が上がるからだ。優先されるのは分かりやすさ。難しい論理は端数として切り捨てられ、感情を媒介に多数派は増え続ける。こうして死刑は正義となる。

情報共有なし、議論なしのままでいいのか

そもそも日本では、死刑についての情報がほとんどない。先進国で例外的な存置国は日本と米国だが、日米の状況には大きな違いがある。米国は情報を公開する。処刑の際には被害者遺族や加害者家族だけではなく、メディアの立ち会いも容認する州が多い。だから悩む。考える。死刑を廃止、あるいはモラトリアムに踏み切る州が増え続ける。しかし日本では執行の立ち会いなどあり得ない。結果として悩まない。考えない。

だからこそ日本の処刑方法は、明治6(1873)年に定められた絞首刑のまま、今も変わらない。絞首された死刑囚の多くが即死せずに何分間も苦悶(くもん)しながら絶命していることに、誰も関心を持たなかった。米国は絞首刑から電気椅子、薬物注射へと処刑方法の変遷を重ねてきた。情報を公開するからだ。国民レベルで議論するからこそ、廃止と存置の間で今も揺れている。

本来なら日本のメディアが法務省に対して情報公開を求めるべきだが、国民がその情報を求めないので、メディアも機能しない。その状態がずっと続いている。

まずは死刑についての情報を共有する。それが前提だ。その上で議論する。システムに破綻はないのか。リスクはどの程度あるのか。死刑囚たちは何を思っているのか。死刑制度にはどのような副作用があるのか。

この国がそうした議論に基づいて死刑制度存置を決めるなら、僕はもう何も言わない。でも今は言い続ける。この国の死刑制度はあまりにも歪(いびつ)で、不可視の領域に置かれていると。

(2016年12月19日 記)

バナー写真:東京拘置所内に設けられている死刑執行のための「刑場」内ボタン室。ボタンを押すと踏み板が外れて死刑囚の絞首刑が実行される。ボタンは3つ設置され、どの刑務官のボタンが踏み板を外したのか、特定できない配慮がなされている(提供=法務省/ロイター/アフロ)