見守っているというメッセージを伝える

真君の両親は離婚し、父に引き取られて再婚相手の女性らと一緒に暮らしているものの、テレビも食事も一人自室で、と決められている。その食事さえ用意してもらえない日もあり、さらには洗濯や掃除も家族とは別に、自分でさせられるとのこと。父は「自立のため」「しつけだ」と殴ることもあったといい、彼は息を詰めて生活している実情を「なるべく迷惑がかからないようにやってる」と鈴木先生に打ち明けてきたのだ。

ネグレクトにも似た環境で暴力を受けて育っている彼の連発する「死にたい」という言葉には、成長途上にある彼がまだ十分に言語化できない苦悩が凝縮されているように感じられる。死にたいほどの苦しさを僕は抱えているんだ、というサインのようだ。

受け止める鈴木先生は「そんなことを言ってはだめ」とありがちな反応をせず、「あなたが中学・高校へ行くのを見送りたいんやけど」と返した。あなたのことを見守っているし大事に思っているよ、というメッセージを真君とのやりとりの中でさりげなく伝えているのだ。

家庭で得られない「心の栄養分」をあげたい

その後も来室者は後を絶たなかった。児童が下校して保健室がようやく静かになった放課後、鈴木先生に「成長に必要な心の栄養分を家庭でもらうことのできていない子が多いですね」と尋ねてみた。鈴木先生はうなずき、こう語った。

「そんな子どもたちに保健室で対応することで、中学・高校でもやっていけるんじゃないかなと仮説を立てて取り組んでいるんです。大事な時期にいっぱい栄養分をあげたいし、荒れかけたり本当に死にたくなったりした時に引き止めるのは、愛情をかけてくれた人の存在なので」

この言葉に、かつて中学校の保健室で取材した女子生徒が、成人してからも道を踏み外しそうになると「いまだに家族の顔よりも先に先生(養護教諭)が思い浮かんで、思いとどまらせてもらっている」と話していたのを思い出す。

自分のために手間ひまをかけてくれた大人がいたという事実は、その子の自己肯定感を高め、健やかな人生を築いていくための大きな財産になるのだ。

国内ではまだ “日陰の存在”

養護教諭という職種のルーツは「学校看護婦」であり、誕生した時期も欧米諸国とほぼ変わらない。しかし、欧米ではスクールナースがそのまま公衆衛生職員の立場であり続けたのに対し、日本では教員となった(現在は養護教諭免許を取得するために看護師免許は必要ない)。学校の中にいて、継続的に子どもの心身に触れることで、カウンセラー以上に相談を受けやすい立場にもなった。

養護教諭の職務は「ケア」と「教育」の2つの役割を併せ持つ。その独自の実践を世界に発信しようと、養護教諭の有志らが「National Network of Yogo Teachers in Japan(NNYJ)」というグループを立ち上げ、3年に1度開かれる国際会議「健康教育世界会議」(International Union for Health Promotion and Education)に90年代から参加し、発表を続けている。

NNYJを立ち上げた元養護教諭の宍戸洲美(ししど・すみ)・帝京短期大学教授は「最初は “yoga teacher”(ヨガの先生)と間違われやすかった」と笑うが、参加者の反応は上々だった。フランスや英国、カナダなどのスクールナースや研究者から、「私たちは子どものニーズを感じても週1〜2回会うだけでは対応しきれず、日本の養護教諭がうらやましい」「日常的なケアと健康教育を同じ人が行うことが理想的。日本の制度に学びたい」と口々に言われたのだ。

宍戸教授は「肥満や虐待、性感染症など世界共通の子どもの健康問題に対して、養護教諭の実践は効果を上げてきた。それらが他国の子どもたちのためにも参考になれば」と話す。

残念なのは、養護教諭の果たす役割が日本国内では正当な評価を受けていると言い難いことだ。正式名称さえろくに知られていないというのは、“日陰の存在” であることを示す一端と言える。教職員でさえ実態を知らずに「子どもを甘やかしている」と偏見の目を向ける人がいるほどだ。養護教諭が子どもの心身の健やかな成長を支える専門家として広く認識され、その力を存分に発揮できるようになれば、日本の子どもたちはもっと救われるようになるはずだ。

(2017年3月5日 記)

バナー写真:PIXTA