ルーツは「熊本」

坂井徳章の父・徳蔵は熊本県宇土市出身で、20歳の時に台湾の警察官の募集に応じて渡台した。やがて、台湾女性、湯玉と恋に落ち、1907年、徳章が生まれた。つまり、徳章は、「日本人」であり、同時に「台湾人」なのだ。日台の“絆”を生まれながらにして表わす人物だと言っていいだろう。

徳章は、台湾南部の台南州で育つが、8歳の時に父・徳蔵が「西来庵(せいらいあん)事件」という警察襲撃事件で命を落とす。台湾人の母の手ひとつで育てられ、母の姓である「湯」を名乗った徳章は、貧困の中でも抜群の頭脳を発揮した。難関の台南師範学校に進むものの、貧困ゆえの退学、そして、今度は、炭焼きをしながらお金をため、巡査試験に合格して警察官に――という道を歩む。

徳章は、不正を絶対に許さない正義の人であり、警察内部でも、さまざまな矛盾と闘っていく。最も大きかったのは、「鹿沼(かぬま)事件」と呼ばれる日本人有力者によるひき逃げ事件だ。

徳章は、穏便に事を処理しようとする警察上層部の意向に逆らい、徹底的にこれを追及し、有力者を追い詰めた。しかし、妥協を許さないその姿勢が、上層部に疎まれ、結局、警察を辞めざるを得なくなるのである。本島人としてはただ一人、警部補に出世していた徳章の決断は人々を驚かせた。

「差別をなくし、台湾人の人権を守るために弁護士になる」

単に警察を辞めただけではなく、帝都・東京に出て行き、当時の日本の最難関国家試験である高等文官試験に挑戦したのである。

父の弟である坂井又蔵を頼って家族(妻と息子)と共に上京した徳章は、又蔵の養子となり、「小学校卒」という学歴にもかかわらず、「専検試験」「予備試験」「本試験」という3つの試験勉強を同時並行で行うのだ。そして、中央大学法学部の聴講生として、1941(昭和16)年10月、ついに高等文官司法科試験(現在の司法試験)と高等文官行政科試験(現在の国家公務員I種試験)に合格する。その猛勉強ぶりは、昼も夜も、また冬も夏もなく、身体を壊さないのが不思議なほど過酷なものだった。

それを支えたのは、「なんとしても台湾に人権の確立を」という強烈な意思によるものだった。しかし、初志貫徹のために台南に帰った徳章を待っていたのは、日本の敗戦、国民党軍の進駐、蔣介石政府の圧政という激変に他ならなかった。台湾人の人権を守るために弁護士として東奔西走する徳章。だが、日本統治時代には想像もできなかった国民党軍による台湾財産の収奪、インフレ、経済破綻、汚職の横行などが、台湾人の不満を爆発寸前に追い込んでいくのである。