師の期待がプレッシャーに

立石にとって梅原から受けた影響は計り知れない。梅原に師事して以降、大きな美術賞を立て続けに取って才能を開花させる立石に、梅原は「いつか日本画壇を背負って立つ一人」と将来を期待した。南国の強烈な太陽を感じさせる立石の日本人離れした色彩感覚にも、梅原は注目していたのではないかと府中市美術館の学芸員・志賀秀孝氏は述べている。

だが、梅原のこの大きな期待が、戦後の立石の画家としての生き方に重いプレッシャーとなっていたようだと、立石の家族は後に語っている。

梅原の勧めで、立石は33年(28歳)より数回にわたり再び台湾の地を訪れた。台湾に「帰る」前の気持ちを立石はこう記している。

「台灣はわたしの生地で、九つまでを暮らしました。ですから私の記憶には、そこはまるで天國のやうです。童話の國のやうです……強いはげしい南國の風物は再び私に新しい夢を見させてくれ、前後を忘れて仕事に狂喜させてくれることでせう……」(「立石鉄臣展――生誕110周年」立石雅夫・森美根子・志賀秀孝の論考より)

そんな弾むような気持ちを抱いて台湾に渡った立石は、台湾の風景を描いた油絵を多く残す。陳澄波、楊三郎、李梅樹ら主だった台湾人画家によって設立された台陽美術協会にもただ一人日本人として参画し、日本人と台湾人の間に対立もあった当時の台湾美術界において立石は台湾人にも愛された。台湾の画家仲間は立石の作風を「台湾のゴッホ」「湾生後期印象派」などと評したという。しかし、戦前のそれら作品の多くは、今も行方知れずのまま見付かっていない。

『民俗台灣』で立石が連載していたコラム「台灣民俗図絵」より「竹の揺籃」、1943年(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)
『民俗台灣』1944年4月号表紙(提供:映画「灣生畫家 立石鐵臣」)

立石はその後、台北帝大の標本画制作の依頼を請けて昆虫や植物の細密画を究める一方、人類学者の金関丈夫、民俗学者の池田敏雄や文学者の西川満らと親交を深め、『民俗台湾』の編集に参加する。皇民化運動が高まり、媽祖像や土地公に代わって天照大神の神棚が備え付けられ、『民俗台湾』や『文芸台湾』の発行も当局に歓迎されるものではなかった。しかし、内容は情熱、好奇心、愛情とユーモアにあふれ、失われた多くの台湾文化を記録した人類学的にもかけがえのない資料となった。

戦後、中華民国政府の下で民俗学者の国分直一らと共にしばらく技術者として留用された立石は、現在の台湾師範大学に近い温州街で暮らし、台北日本人学校の最初の美術教師も務めた。

台湾人弾圧の引き金となった二二八事件(1947年)後の48年12月、日本に引き揚げてからは図鑑の挿絵などで生計をたて、戦後の画壇では無名のまま80年、75歳でその生涯を終えた。

それから30数年。

2015年、銀座「泰明画廊」での回顧展を皮切りに、16年春には東京府中市美術館で初の大型回顧展「麗しき故郷『台湾』に捧ぐ――立石鉄臣展」が開催され、日本でもようやく、立石への本格的な再評価がスタートした。

「府中市美術館・立石鉄臣展」の大型看板:作品「春」、昆虫系秘画など、2016年(撮影:邱函妮)