近藤の教えは日台問わず現代に引き継がれた
甲子園で準優勝した年に建設された嘉義球場のホームベースの位置は、近藤が「夕日が選手の妨げにならないように」と太陽の沈む位置を見て決めた。
近藤は、松山商業時代に6回、嘉義農林時代は5回、甲子園に出場している。嘉義農林を率いて春夏連続出場した35年夏の甲子園・準々決勝では母校・松山商業と対戦し、延長戦の末4対5で惜敗した。松山商業はその後、準決勝・決勝と勝ち進み、初の全国制覇を達成した。応援に駆け付けた近藤は松山商業を率いていたかつての教え子で監督の森茂雄と抱き合い、涙を流して喜んだという。
1945年、日本敗戦と共に中国から台湾接収のためにやって来た中華民国の国民党は、野球を日本文化であるとして奨励しなかったため、生まれ故郷に帰った選手たちは、各地で少年に野球を教えた。やがて、台中市の少年チームが69年にリトルリーグ・ワールドシリーズで優勝し、野球が評価されるようになる。71年から4年連続優勝し、17回の優勝回数が世界一という快挙を成し遂げた。当然のように野球部ブームが起こり、プロ野球で活躍する選手も現れ、日本の球団にも多くの選手が入団している。
近藤の主な教え子に藤本定義、森茂雄(ともに松山商)、呉明捷、呉昌征、今久留主淳、今久留主功、呉新亨(ともに嘉義農林)らがいる。そのうちの藤本、森、呉は日本の野球殿堂入りを果たしている。近藤が活躍した28年からの10年間は、台湾野球の第1期黄金時代と言っても過言ではない。台湾の野球関係者いわく「近藤監督ありて、嘉義農林野球部あり、嘉義農林野球部ありて今日の台湾野球がある」と。
台湾野球の礎を築いた近藤は46年に故郷・松山に引き揚げた後、新田高校野球部の監督や愛媛大学野球部を指導した後、66年5月19日に永眠した。77歳の生涯だった。葬儀には教え子や各界から届いた多くの花輪が、自宅前の道路数十メートルにわたって飾られたという。
バナー写真=嘉義大学キャンパスの銅像(提供:古川 勝三)
