経営難乗り越えるも再び危機に
しかし、漫画や少年雑誌への関心は捨てられなかった。
1966年国民党政権が漫画に対する統制を強めるための「編印連環図画輔導弁法(中国式の漫画『連環画』編集印刷への監督に関する命令)」を本格施行した(制定は62年)。これによって漫画出版社は事前審査と却下によってコストや負債が発生することになり、続々と倒産した。
前にいた文昌出版社も傾いたので相談された。日本でテレビアニメの人気が出ていたので、それを導入して新たなビジネス展開しようとも考えたが、台湾には当時テレビ局は1局しかなく、枠も限られていて商売として成り立たないと考え、再び少年雑誌を作ろうということになった。
そこで登場したのが、台湾における日本漫画浸透を決定付けた半月刊誌『王子』だった。知り合いで出資し合い、焜霖氏の義父(妻の父)が社長、文昌出版社の元社長を副社長、焜霖氏自身が編集長となって雑誌を創刊。後に会社とした。題名は「少年少女の憧れである王子様のような存在になろう」という意図で付けられた。しかも画数も少なく、中国語での音(ワンツー)の響きも良い。
日本の少年誌を参考にし、漫画だけでなく、読み物などを充実させた。これが大当たりで、創刊号は既に2万部、2~3年後のピーク時には4万5000部に達し、台湾における雑誌の発行部数としては『読者文摘』(リーダーズダイジェスト中国語版)についで2位に付けたヒット商品となった。
「連環画」に対する事前審査も、「これは連環画でなく単なる挿絵であり、全体の20%を超えない」といってすり抜けた。
その間、リトルリーグで世界一になった和歌山チームと台湾で対戦した台湾台東の紅葉少年野球チームの支援事業も展開した。ブヌン族を主体とする紅葉チームは予算がなくて台北の試合に出られなかった。そこで会社所有のマイクロバスを焜霖氏が運転したり、会社に泊まらせたりして、何とか試合に出られるようにした。
しかし雑誌を増やすなどの事業拡張や、印刷工場の台風による冠水などで負債を背負って、『王子』創刊から3年後の1969年には経営は厳しくなる。
支援を求めて当時2大新聞に手紙を書いたところ、『聯合報』から返事が来た。そこで緑島監獄時代の友人に出会い、出資してもらって『王子』は続いた。
66年12月15日に創刊された『王子』は、83年10月に廃刊されるまで400号を出した。王子出版社の児童書シリーズは85年まで200冊あまりが出版された。
80年代前半に廃刊に追い込まれたのは、直接的には経営を受け継いだ人が『聯合報』との掛け持ちで、海外に出たためである。だが別の要因としては、漫画雑誌が台頭し過当競争になったせいでもある。そして90年代には米国の圧力もあって、台湾が著作権法の規定を厳しくし(92年6月改正著作権法施行)、94年6月12日を期限に海賊版を禁止にした。その後は日本の出版社と正式に契約を結んだ正規版が展開されている。
焜霖氏自身は借金返済に追われ、69年以降は『王子』からはほぼフェイドアウト。その後は国泰グループの生命保険会社の研修センター、国華広告、再び国泰グループで副会長にまで上り詰めた。