かつて文芸評論家の尾崎秀樹(おざき・ほつき)は、台湾総督府第4代総督児玉源太郎の時代(1898年からおよそ8年間)に盛んになった、漢詩文を介しての日台の交流について以下のように指摘したことがあった。
「文芸といえば漢詩をつくり漢文をよむことと考えられていたのが、当時の実状だった。台湾人の読書人とのあいだに、その意味であい通じ合う共通の地盤があった。それを統治者たちは意識的に有効に役立てたのである。」(『近代文学の傷痕』、下線筆者)
尾崎は、敗戦革命を目指して活動し、ゾルゲ事件で検挙された尾崎秀実の異母弟。台湾日日新報社漢文版主筆でもあった尾崎秀真を父に持つ。引用文中の「統治者たち」とは日本人のこと。この一言からも日本の台湾統治に対する尾崎秀樹氏の冷ややかな視線が伺えるが、当時の日本人と台湾人の間に「相通じ合う共通の地盤」があったとする指摘は的確である。
尾崎が指摘するところの、日本人と台湾人の間にあった漢詩文という「相通じ合う共通の地盤」のもとでの交流の実状とはどのようなものだったのか。そして、文人画というもう一つの「相通じ合う共通の地盤」も併せて考察したい。