米軍の爆撃で廃墟になるが、戦後に国際貿易港として復活
その後、大阪港や門司港と基隆港を結ぶ航路が大阪商船や日本郵船によって運営され、8000トンから9000トン級の客船が往来するようにもなった。
松本は基隆築港のめどが立つと、砂の堆積がひどく使用不能になっていた安平港と台南市内を結ぶ台南運河の設計と施工の指導監督を行うため台南に拠点を移し、1923年に着工し4年後に完成させた。また36年には台南の玄関口、安平港も整備し完成させている。翌年には基隆港を見下ろす旭が丘に顕彰館「松本虎太記念館」が建設されたが、戦後は放置され荒れた状態になっている。
基隆には日本軍の基隆要塞があり、41年に第二次世界大戦が始まると、物資輸送や海軍基地として重要になった。このため、大戦末期には攻撃の矢面に立ち、米軍の爆撃の主要目標となった。港湾埠頭施設と停泊していた船舶は全て深刻な被害を受け、港湾区域は廃墟となった。
日本人の多くはまず基隆港に上陸して台湾の大地に第一歩を記したが、戦後は上陸したその基隆港から引き揚げていった。松本は戦後も留用日本人として台湾に残り、台湾電力の維持のため顧問となって協力し、2年後の47年に基隆港から引き揚げ、59年80歳で生涯を終えた。川上、松本の両技師が造り上げた基隆港は、台湾における国際貿易港として今日も活況を呈している。
バナー写真=現在の旧日本郵船基隆支店(提供:古川 勝三)


