与那国島に関する最古の記録
日本の西国境(さいはて)の島である、与那国。初めてその名前を聞いたのは中学だったか高校だったかはっきり覚えていないが、台湾と海を隔てており晴れた日に与那国島から海上を眺めれば台湾が見えてくるという地理の先生の話だけがぼんやり記憶に残っている。そんな授業があった日から十数年後に、私はやっとこの島を訪ねることができた。
与那国島は東西に長く南北に狭く、面積は台湾の蘭嶼(らんしょ)の島の半分ほど、30平方キロ足らずで、バイクに乗れば1時間で島を一周できる。石垣市から127キロ、那覇市から520キロも離れているが、台湾との距離は111キロしかない。日本のどの都市よりも台湾の方が近いのだ。亜熱帯に位置しているので、島では至るところで蒲葵(ビロウ)、アダン、ガジュマル、ソテツ、センダングサなどの熱帯植物に覆われている。
与那国島はほとんどの海岸が断崖絶壁であるのみならず、島の周りも海風が強いため船が接岸しにくい。島の別称「ドゥナン」とは即ち「渡難」の意味だと言われている。これは俗説で恐らく本来の語源ではないが、絶海の孤島というイメージが持たれていたのは間違いないだろう。今でも島の対外的な交通手段は、那覇行きの飛行機が1日1便、石垣行きの飛行機が1日3便、そして石垣行きのフェリーが週2便というふうに限られている。物資の供給は主にフェリーに頼っているらしく、そのためフェリーの到着する火曜日と金曜日が一番物資が充足している日だという。島民がアマゾンで注文した商品もフェリーで届けられることになっているので、注文から到着まで1週間以上かかることがよくある(東京都の場合は大抵1、2日以内で到着する)。しかも通常なら高い離島運賃がかかってしまうので、島民の多くは送料を無料にするためにプライム会員に加入していると聞く。実際、フェリーが島の南西にある久部良(くぶら)港で停泊すると、港の作業員たちはせっせと荷物を詰めたコンテナをフェリーから運び出し、どこかへ運んでいった。
こんな絶海の孤島だが、初めて歴史の記述に登場したのは1479年、韓国『成宗大王実録』という書物だった。記録によれば、1477年、韓国の済州島から出発した数名の漁民は海上で嵐に遭い、十数日の漂流の末に与那国島の近くに着いたという。その時船が既に壊れていて船員はほとんど溺死し、3人だけが生き残り、船の破片に乗って何とか海に浮いていた。そこを4人の島民が2艘の漁船に乗って通りかかり、3人を救助した。1871年に台湾に漂着し原住民によって殺害された宮古島島民の悲惨な運命とは違い、この3人の漁民は与那国島でもてなされた後、無事韓国に帰国した。だから島での見聞が韓国の書物で記録として残ったのだ。
『実録』によれば、当時の島民は比較的プリミティブな生活を送っていた。例えば文字がなく、当時東アジアの共通言語だった漢文を書いてみせても意思疎通できなかった。男女とも耳に穴をあけ、糸で繋げた青いビーズを通して10センチほど垂らし、飾りとしていた。その繋げたビーズを首の周りに三重四重に巻いてから30センチほど垂らす人もいた。履き物がなく常に裸足で、厠(かわや)もなく山林で用を足していた。陶磁器がなく、土を捏ねて作った鍋で炊飯をするが、5、6日間で壊れてしまう。酒は濁り酒しかなく、たくさん飲んでやっと微酔(ほろよ)いになる。その作り方も特別で、麹などは使わず、米を水につけたあと女の人に噛ませて、できた粥状のものを木の桶に入れて醸造するのだ。また、気風が純朴で、盗賊がなく、道に落ちているものは拾わず、喧嘩もせず、子供に愛情を込めて育てており、泣いても手を上げないという。
この3人の漂着民は与那国島で半年暮らした。季節が移ろい、風向きが変わった後、島民は小舟を出して彼らを他の島へ送り届けた。まずは西表島へ送られ、そこからまた島民たちの船に便乗する形で、波照間島、新城島、黒島、多良間島、伊良部島、宮古島へと転々と送られ、そしてやっと那覇に着き、そこで博多の商船に乗って無事朝鮮に帰還した。近代国家という概念がまだなかった時代に、島々の人は既に海を通して繋がっていたのだ。数百年前から歴然と存在していた海上のネットワークに思いを馳せながら、近年台頭した保護主義のことを考えると、何とも感慨深い。

