蒋経国の「前方への逃走」

その後泥縄式に学んだ比較政治学者の言葉で「前方への逃走」というのがあった。権威主義体制のリーダーは、内外の情勢が不利になった時、下からの政治的自由化や民主化の要求に小刻みに応えることによって延命を図ることがある。自由化・民主化を前方とすれば、小刻みな譲歩で「前方へ逃げていく」というのである。私は後の著作で晩年の蒋経国の政治決断は「前方への逃走」に類するものと見立てた。

前回記したが、香港で知り合った物知り台湾人の呉鴻裕さんは、85年2月初めの時点で「(江南事件は国民党)政権の命取りになるかもしれない」と予測していた。その後の展開から振り返って、この予測は当たっていたのか、いなかったのか。短期的には、江南事件の危機は乗り切ったので、答えはノーであろう。

ただ中長期的に言えば、答えはイエス・アンド・ノーである。イエスであるのは、結局2000年には総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて国民党は政権を失ったからで、ノーであるのは、1986年の民進党結成容認、87年の長期戒厳令解除というブレイクスルー以後の民主化過程でも国民党は長く政権の座につき続けていたからである。そのプロセスにおいて李登輝は国民党内権力闘争に勝利して「台湾のサダトになる」ことができたのだが、それは蒋経国が晩年にしかけた「前方への逃走」の戦略が有効で、李登輝がそれに適合的な人物だったからかもしれない。

1983年選挙の場に「台湾前途の住民自決」という台湾ナショナリズムのスローガンが登場していたように、争われるのはもはや単純な自由化・民主化問題ではなくなっていた。李登輝の「党歴が浅い農業経済学者で蒋家のストロングマンが抜てきした台湾人、しかも共産党脱党者でキリスト教徒」という複雑な属性が「前方への逃走」のリーダーシップには必要だったのだろうと思う。

この回の原稿を編集部に渡してから、李登輝氏が逝去した。7月30日夜のことだった。享年97歳であった。深い哀悼の意を表するととともに、こころよりご冥福を祈る。私は新聞の取材に応じてコメントを書いた。新聞社が「李氏が駆け抜けた細い道と高い壁」と見出しを付けたこの短文では「李登輝サダト論」にも触れた。私が李登輝氏と直に接する機会を得るようになるのは、まだ数年先のことである。それらのことはおいおい書いていきたい。

バナー写真=1985年11月台湾地方選挙の「党外」勢力の演説会に現れた「新約協会」の抗議のプラカードの列(筆者撮影)