柯旗化先生との出会い

この時の訪台では、高雄で柯旗化先生という人と知り合った。出張扱いだったので台湾では日本の対台湾窓口・交流協会のお世話になった。うろ覚えだが、柯先生と知り合ったきっかけはおそらく交流協会の高雄事務所の紹介だったと思う。書斎の片隅に保存してあった当時の予定帳によると、13日夜に三島泰正高雄事務所長の宴席があり、翌日朝9時「柯先生来る」と記してある。前日の宴席に柯先生も相客に呼ばれていて、選挙の様子を知りたいなら案内してあげましょうということになったのだろう。中国語で「○○先生」と言えば「○○さん」と呼ぶのと同じだが、柯さんは高等学校の英語教師をしていたこともあって、まさに日本語で「先生」と呼び掛けるにふさわしい雰囲気の人柄だったのでおのずと「柯先生来る」とメモしたのだと思う。

柯旗化氏(前列右)。左が筆者、後列が林瑞明君、麻豆鎮の林家跡で(筆者提供)
柯旗化氏(前列右)。左が筆者、後列が林瑞明君、麻豆鎮の林家跡で(筆者提供)

柯旗化先生は元政治犯であった。政治研究であれ何であれ、長期戒厳令期から民主化期にかけて台湾での現地調査を一定の期間続けた人は、何らかの形で「元政治犯」に出会う。そもそも私の最初の訪台(1973年)の時にお会いした楊逵さんも元政治犯であった。楊逵さん(1906-85年)は日本植民地時代に活躍した農民運動活動家で文学者でもあったが、戦後初期その言論活動が国民党当局の忌避に触れ「緑島送り」(後述)となった経験を持っていた。楊逵さんのことは回を改めて回想したい。

共産党取り締まりを名目とした「白色テロ」体制下の「政治犯」には、外省人も本省人もいた。そして本省人なら「日本語人」(戦後の中華民国統治下でも引き続き日本語で同世代と会話し、さまざまな知識の獲得などを日常的に行っていた人々)であることがほとんどであった。本省人の元政治犯は世代的には台湾の「戦中派」にあたり、日本植民地期の学校教育経由で知的な自己形成を行った人々だったからである。柯旗化先生(1929-2002年)もそうだった。私と柯先生と二人だけなら終始日本語で会話し、柯先生が会わせてくれた人が戦後世代だったら中国語、その人と柯先生とは台湾語(福佬語)で話すという言語関係だった。

14日朝、柯旗化先生は約束通りホテルに迎えに来てくれた。そして、まず「第一出版社」に行った。そこが彼の家で、1階が会社、2階以上は住居という台湾の街中に見られる典型的な住宅兼店舗の造りだった。2015年に再訪した時、ここは第一出版社という看板も家の造りもそのままに「柯旗化故居」という柯旗化先生の記念館になっていて、柯旗化先生の生涯を語る写真や家族に宛てた獄中書簡などが展示されていた。

第一出版社のある通り(筆者撮影)
第一出版社のある通り(筆者撮影)
「柯旗化故居」の一階入口(筆者撮影)
「柯旗化故居」の一階入口(筆者撮影)

第一出版社に着くと、ちょうど作業をしていた奥様に私を紹介してから、今こういうのを出していると言って棚から取って手渡されたのが『台湾文化』という雑誌で、見開きには柯旗化先生の筆になる「母親の悲願」という詩が掲載されていた。台湾現代史最大の悲劇二・二八事件に倒れた息子を思う母の気持ちを語った詩で、「党外」の集会で朗誦して共感を得たものだそうである。二・二八事件についての公然たる追悼と見直し要求の社会運動が始まるのにはあと一年半ほど待たなければならないが、今思えばこの時すでに元政治犯があえてリスクを取るようになっていたのである。柯旗化先生が逝って18年をたった今でもネットで検索すると自分のフェイスブックのページにこの詩を掲げて記念する人がいる。