戦後防疫活動の源流となった潮州マラリア研究所

屏東県潮州にかつて存在した「瘧疾(マラリア)研究所」は、戦後台湾の防疫活動の源流にあたる場所だ。日本統治期のマラリア研究施設を拡充し、ロックフェラー財団の援助下で大量の研究者を雇用した。その中には戦後も台湾に留まり教育に努めた日本人医師の教え子も少なくなかった。マラリアを撲滅に至らしめる決定打になったのは、DDTという殺虫剤だ。環境への毒性が批判される前は「魔法の薬」と呼ばれ、日本でもシラミ対策等に用いられた。台湾では「噴射隊」というチームが組織され、DDTが入った缶を荷台に載せ、自転車で村から村へと移動し、住居の壁や家具に噴射して回り、抜群の成果を上げた。そして1965年のWHOによるマラリア根絶宣言へと至る。

なお大量のDDTや噴射器を提供したのは、アメリカの資金援助の下に組織された農復会(中国農村復興聯合委員会)という機関で、故李登輝元総統や筆者が以前取り上げた陳俊郎氏もここに勤務していたことがある。

戦争こそが最大の敵

台湾の抗マラリア史を調べると、研究や治療にあたった人々の勇気と労苦に感嘆させられる。原虫のはびこる山野に分け入り蚊を採集した学者たち。その為に命を落とした木下嘉七郎。辺境の地で検査・治療にあたった医療従事者、並びに民衆の衛生指導にあたった警察官の存在も忘れてはいけない。マラリア対策に貢献があった日本人を、後世の台湾人も詳しく記録してくれた。特に朱耀沂の著作『臺灣昆蟲學史話1684-1945』(臺大出版中心)や台湾史研究所副研究員・顧雅文の論文には、日本では忘れ去られているに等しいマラリア研究の先人の足跡が細かく記されており、台湾とマラリアの戦いを知る貴重な資料となっている。

そうした人々の努力により日本統治初期から50年近く積み上げてきたものを、台無しにしたのは第二次世界大戦であった。戦争を頂点とする社会の動乱こそが、感染症防止にあたる人々にとっての最大の敵といえる。まずなによりも平和、そして社会全体の衛生環境および生活水準の向上。これらが前提条件となってはじめて、感染症を克服する道が開かれる。

バナー写真=日本統治期に建てられた屏東潮州のマラリア研究施設。1948年「マラリア研究所」として再始動し大きな成果を上げ、戦後台湾における防疫史の源流となった(台湾疾病管制署提供)