疎開で台湾へ
宮古地方はもともと、日本統治期の台湾とかかわりが深い。宮古島は台北と那覇のほぼ中間に位置するが、台北など台湾の都市部は那覇に先んじて近代化が進んだため、雇用や教育の機会を求めて台湾へ渡る人が多かった。砂川さんが進学のために台湾へ行ったのはその一例といえる。
加えて、疎開があった。
沖縄を含む南西諸島からの疎開は、日本政府が1944年7月7日に開いた緊急閣議で決まった。戦後の1945年9月時点で沖縄からの疎開者は計1万2939人が台湾にとどまっていたと推定されている。このうち宮古出身者は、少なく見積もっても3人に1人以上を占め、沖縄県内から最も多くの人が台湾に疎開した場所である可能性がある。
洲鎌さんの父、秀雄さん=享年(38)=は1942年ごろから首里の沖縄師範学校で教師をしており、一家は同校近くの宿舎で暮らしていた。1944年に入ると、母、ツルさん=同(35)=の兄弟姉妹が台湾北部で暮らしていたことから、ツルさんが久人さんらを連れて台湾へ疎開した。相前後して、秀雄さんは校務で台湾に出張し、そのまま台湾で終戦。戦後は家族7人で栄丸に乗り込み、遭難事件に巻き込まれた。
