因縁の河野洋平氏とアジアでは連携

自民党ハト派の拠点といわれた「アジア・アフリカ問題研究会」(通称AA研)――。衆参両院で議員を務め、軍縮問題に政治生命をかけた宇都宮徳馬氏が1965年に結成、国交正常化前の中国や韓国との関係強化などを議論していた。

衆院は2023年12月27日、河野洋平元議長の「オーラルヒストリー」(口述記録)を公開した。それによると、河野氏は「AA研では、宇都宮徳馬さん、木村俊夫さん、伊東正義さんといった人が中心にいて、とても教育的で一つ一つ丁寧に教えてもらいました」と語っている。

伊東氏はAA研で洋平氏よりも先輩格。両氏はアジア政策では連携していたともいえる。しかしながら、伊東氏は農林省時代、洋平氏の父、河野一郎氏が農相だったときに食糧政策で対立、自説を曲げなかったため東京営林局長に左遷され、その半年後には名古屋営林局長に飛ばされた経験を持つ。

ただ、自民党の実力者だった一郎氏は伊東氏の見識、力量は評価していた。伊東氏が総選挙に出る際、自らの派閥「春秋会」(河野派)に誘ったほどだ。

一方、洋平氏は1986年に新自由クラブを解党、自民党に復党した。宮沢氏に誘われ宏池会(87年に宮沢派)に入ろうとしたが、洋平氏のオーラルヒストリーによると、伊東氏に呼ばれて「君は小なりといえども一党の党首をやったんだから、自民党へ戻ってどこの派閥に行くなんて言わないで、一人でいたらいいじゃないか」と言い渡されたという。洋平氏はその後、宮沢派入りしたものの、当初は伊東氏との関係は微妙だったのかもしれない。

もっとも、伊東、洋平両氏とも外相に就任し、中国をはじめアジアを重視した外交を展開したことは共通している。そもそも洋平氏は金権体質を批判して自民党を離党、新自由クラブ時代には北京で鄧小平氏と3時間近く会談したこともある。今も日本国際貿易促進協会(国貿促)会長としてコロナ禍の時期を除いて毎年のように訪中、中国要人と会談している。その意味では、伊東氏の役回りを受け継いでいるともいえよう。

日中関係で“息子”加藤紘一氏に期待

伊東氏自身は、日中関係の将来を担う政治家として、宏池会のプリンスと呼ばれた加藤紘一氏に期待していた。加藤氏は26歳年下だ。伊東氏と同じく東大法学部卒。外務省に入省、中国課を経て1972年に政界入りした。英語のほか中国語も操り、中国との架け橋になるには打ってつけだった。 

前列左から大平正芳首相、伊東正義官房長官、加藤紘一官房副長官(1980年5月、衆院本会議場=回想録『伊東正義先生を偲ぶ』から引用)
前列左から大平正芳首相、伊東正義官房長官、加藤紘一官房副長官(1980年5月、衆院本会議場=回想録『伊東正義先生を偲ぶ』から引用)

伊東氏が官房長官のとき、加藤氏は官房副長官。自民党政調会長時代、加藤氏は会長代理として補佐した。子どもがいなかった伊東氏は息子のようにかわいがった。加藤氏自身「実の父親以上に父親」と漏らしたことがある。

加藤氏は伊東氏の死後、宏池会(加藤派)会長になり、首相候補と目された。しかし、2000年のいわゆる「加藤の乱」に失敗。その後、曲折を経て政界を引退、16年9月9日、77歳で死去した。

加藤氏は伊東氏の回想録に「日中問題のため努力される先生をお手伝いしたことなど、思い出は尽きない」と綴っていた。

最愛の輝子夫人、中国側は北京に招待

頑固一徹で、晩年は糖尿病も抱えていた伊東氏が政治家として活躍できたのは、輝子夫人(旧姓三沢)の支えがあったからにほかならない。農林省の職員だった夫人とは恋愛結婚。気取らない性格で、選挙運動も二人三脚でこなした。「内助の功」を超える存在だった。

伊東輝子夫人(左)と加藤紘一氏(2005年6月14日、都内の割烹「桔梗」)=筆者撮影
伊東輝子夫人(左)と加藤紘一氏(2005年6月14日、都内の割烹「桔梗」)=筆者撮影

中日友好協会の孫会長は1996年10月、輝子夫人を北京に招待した。「伊東氏は農林官僚出身だったが、清廉潔白で、子どもがなく、残された夫人は清貧で孤独な暮らしをつづけている。夫人を招待したのは気分転換のためと、生前の友情に少しでも応えるためであった」。孫会長はこう書き残している。

伊東氏は筆まめだった。興亜院から派遣された上海からも輝子夫人に手紙を送り続けた。夫人から「手紙はすべて取ってある」と聞いたことがある。

1987年から伊東氏の秘書となり、その後も輝子夫人のいわば秘書役を務めた佐藤暁氏は「先生は万年筆のモンブランのブルーブラックのインクを愛用していた。少しでも時間があれば、写真入りはがきにペンを走らせ、友人や地元の支援者にせっせと送っていた」と回想している。

伊東正義氏が直筆で支援者らに送った写真入りはがきの数々=筆者撮影
伊東正義氏が直筆で支援者らに送った写真入りはがきの数々=筆者撮影

「この際、遺言として言っておきたいことが二つある。私は死んでも叙位叙勲はもらわない。告別式も人の迷惑になるだけだからやらないでほしい」

87年12月15日、東京・赤坂の山王飯店で伊東氏の74歳の誕生日を祝う宴が催された。「(70歳で亡くなった)大平より4年も長生きしたんだなあ」とつぶやき、バースデーケーキの蠟燭(ろうそく)を吹き消すと、真顔でこう遺言を残した。

74歳の誕生日を迎えた伊東正義氏と握手する筆者(1987年12月15日、東京・赤坂の山王飯店)=伊東事務所提供
74歳の誕生日を迎えた伊東正義氏と握手する筆者(1987年12月15日、東京・赤坂の山王飯店)=伊東事務所提供

94年5月23日、東京・中野の宝仙寺で営まれた葬儀・告別式には筆者も参列したが、もちろん盛儀となった。後藤田正晴・元副総理は弔辞で「あなたは、政治家の中では珍しく、愚直なまでの潔癖漢」と偲んだ。

輝子夫人は遺言を尊重して叙位叙勲は辞退した。名利を求めない伊東氏は生前も勲章は断った。衆院では在職25年の永年在職議員は国会内に肖像画を飾る特権があるが、これも辞退している。

伊東氏は政界引退に当たって1993年1月29日付で、地元支援者に対して“最後の手紙”を送った。その一節に政治家人生が凝縮されている。

「私は如何なる時も自分の信念に基づき行動し、自分が正しいと信ずるときは、他人が言いづらい事でも時には発信し、ならぬものはならぬの精神を胸に、嘘をつかず国民から信頼される政治を心掛けて参りました」

伊東氏はあまりにも潔癖なだけに、自民党内の一部から煙たがられることさえあった。だが、与野党から人望を集めた稀有な政治家だった。外交は内政の延長ともいわれる。先ずは有権者が信頼できる政治家を選ぶことが問われている。

バナー写真:日中友好議員連盟訪中団の伊東正義団長(左)の手を取り会談の席に案内する鄧小平・中国共産党中央軍事委員会主席=1989年9月19日、北京市の人民大会堂(共同)