「女は愛嬌」―男たちの変わらぬ鈍感さ
理屈ではそう言えるのだが、しかし、多くの女性たちの率直な気持ちは、なぜいつまでもこんなことが・・・という気持ちだろう。都議会議員ともあろうものが、議会という最も公式な場で少子化問題について質問をしている女性議員に対して、早く結婚しろ、自分が子どもを産めと、女性の自己決定権やプライバシーを無視し、彼女の議員としての職責を軽視した発言をする。
性的な言葉で女性は悩まされ続け、仕事の継続に支障をきたしているくらいなのに、ただの冗談、それくらいのことで処分されるのはおかしいと開き直る。そして女性のおしゃれに敏感なセンスを売り物にしているはずのファッションビルが「働く女性を応援する」と言いながら女性はやっぱり可愛らしくなくっちゃ、と堂々とコマーシャルを打つ。こんな時代錯誤がいつまで続くのかと、ほとんど絶望的な気分にもなるのではないだろうか。
そうなのだ、こんなことをしたらセクハラ、セクハラってダメなんだよね、という「常識」は確かに生まれているはずなのだけれど、実のところ、女性が何に怒りや不快を感じるのか、なぜセクハラが問題なのか、基本的なところがほとんど理解されておらず、男たちの鈍感さは何も変わっていないのではないか。
多少タッチしても自分は職場では人気があるから大丈夫、下ネタを振っても女の子たちは笑ってくれてる。だから自分の言動がセクハラであるわけはない。いい人と結婚して子どもを産むのが女の幸せなんだから、それを勧めて何が悪いのか。女性はやっぱり可愛くて愛嬌のあるのが一番。そんな「常識」のほうが、セクハラ常識以上に、もっともっと根深くある。女性たちのほうはすでに、いわゆるキャリア志向であろうがそうでなかろうが、そんな「女らしさ」の押し付けにはとっくにNo!と言っているのに、そのギャップはあまりに深い。
「素直で優しく」の呪縛から逃れられない女性たち
私の知人のある女性県議は、男性議員のセクハラにしょっちゅう悩まされていると語り、「議会はジュラシックパーク」と表現した。『ジュラシックパーク』とは、絶滅したはずの恐竜がよみがえって人間を襲うSF映画だが、滅びた恐竜のような時代遅れの感覚の中高年男性が力をふるっている現場は議会に限らずどこにでもあるだろう。
それに今、女性たちはNo!と言っている、と書いたが、実は、そのNo!はあまり伝わっていない。女性が周囲に配慮、協調的な態度を取りがちなのは洋の東西を問わないが、日本社会では特にそれが強い。なにしろ「竹を割ったような」「はっきりものを言う」というのは日本では決してほめ言葉ではなく、男女を問わず和や協調が強く求められる文化規範のなかで、特に女性は、幼い時から素直で優しく、と育てられる。女性たちは、愛想よく振る舞い、相手の気持ちを慮(おもんぱか)って、対立を避けることがほとんど身体化している。
最高裁判決の事件でも、上司が発する下品な言葉が苦痛であっても、女性は不快だからやめてください、とは言っていなかった。おそらく、笑わない、相手にしないことで不快感を表現していたことだろうが、それは残念ながら伝わっていなかった。セクハラヤジを受けた塩村文夏(あやか)都議も、自分の議員としての立場をおとしめるヤジに、怒りの表情をあらわに出すわけではなく、戸惑うような微妙な表情をしていた。ルミネのCMも同じだ。「いい子」「好感度の高い女性」でいることに慣らされている女性たちは、怒りをパッと表現することがなかなかできないのだ。
痴漢に遭ったときでさえ、「やめろ!」などと怒鳴りつけるなどはできず、小さな声で「やめてください」と「お願い」するのが精いっぱいだ。それに、女性が怒鳴り声をあげるなどすれば、痴漢被害者であっても、周囲の乗客たちは呆れた目で女性を見ることだろう。英語なら、"Don’t!"、"Stop it!" と言うのに男女の性差はないが、日本語では、痴漢に「やめて」と言うのにさえ、「女らしい」言葉遣いをしなくてはならないのだ。こうして考えてみれば、日本語では女性にはNo!の語彙が無いわけで、悲しいまでの縛りではないか。