狂い死にする戦友たち
中嶋さんは、昭和19年8月19日未明、フィリピンに向かう途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、乗っていた輸送船「玉津丸」が沈没。地獄の漂流の末に奇跡的に救出された。
1隻でおよそ5000人が死んだ玉津丸の沈没は、バシー海峡の悲劇の中でも特筆されるものだ。辛うじて海面に浮かび上がった兵たちは、やがて漂流の過程で、1人、また1人と命を落としていく。水もなく、食糧もない筏(いかだ)の上では、海水を飲むより他になく、たちまち尿が濃茶色となり、尿毒症のような症状を呈して、幻覚を見ながら、筏の上で狂い死にしていくのである。
太陽の熱射によって、肌が火傷(やけど)の症状を呈し、皮膚が濃茶色になっていくのにも時間はかからなかった。
中嶋さんもまた幻覚を見るようになるが、それでも「ここで死んだら、おふくろが哀しむ。死んでたまるか」という気迫で、辛うじて正気を保つのである。朝が来るたびに筏にナイフで刻みを入れ、「日時の経過」の感覚を失わなかった中嶋さんは、実に12日後に、海防艦によって救助されるのである。
残りの人生を仲間の鎮魂のために捧げる
死んでいった戦友たちの無念が忘れられなかった中嶋さんは、戦後の半生を仲間の鎮魂のために捧げようと決心する。それは、戦後日本の礎となって死んでいった仲間のことが忘れ去られたばかりか、嫌悪すべき「過去の存在」として切り捨てられていることに我慢がならなかったからでもある。
戦後36年という長い歳月を経て、自らの私財と、多くの台湾人の協力を得て集まった浄財で悲願を達成した中嶋さんは、生涯、潮音寺を守り抜こうとするが、敷地が土地トラブルに巻き込まれるなど、紆余曲折を経ることになる。
中嶋さんは2013年、私が2日間にわたって取材をさせてもらった一か月後に亡くなった。死去する2日前に、私が中嶋さんから頂戴した手紙には、「もっとお話したいことがありましたが、躰(からだ)が固まったからと思い、あきらめました」と、書かれていた。
中嶋さんは、取材が終わる時も、「門田さん、もっと聞いてくれ」と痩せ細った手で、帰ろうとする私の服の袖を握って離さなかった。「もっと聞いてくれ」という言葉は、今にして思えば、戦友の声を「もっと後世に伝えてくれ」という意味だったように思う。
その中嶋さんの生涯をかけた慰霊の寺・潮音寺で、初めて大規模な慰霊祭が行われたことに、私は言葉では表せない感慨を抱いていた。