米国留学から台湾へ

菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で生まれた。隆盛が奄美大島に潜居した折、愛加那との間にもうけた子供である。1869年8歳のときに西郷本家に引き取られ、12歳の時、2年6か月の米国留学を果たして74年7月に帰国した。17歳のとき西南戦争が勃発し、薩軍の一員として参戦するが、高瀬(熊本県玉名市)の戦いで一生義足を装着することになる銃創を右足に受け、膝下を切断した。田原坂が政府軍の手に落ちると、以後、菊次郎は隆盛の老僕であった永田熊吉に背負われて、人吉そして宮崎へ困難な山岳地帯の敗走行を重ねる。和田越(宮崎県延岡市)の戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は俵野に陣を移し、今後の動向について軍議を重ねた結果、可愛嶽を越えて三田井に抜けることを決意。戦闘で重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らいで他の負傷兵や熊吉と共に俵野に残された。熊吉は負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道の下へ投降した。西郷従道はおいの投降を喜び、熊吉に礼を言ったという。以後、菊次郎は西郷従道の支援を得ながら留学経験を生かす場として外務省に入り、米国公使館や本省で勤務していた。

1895年4月に台湾が下関条約によって日本に割譲されると、菊次郎は台湾総督府参事官心得を命じられ台湾に赴任する。この時奄美大島に寄り母に再会するが、これが母と会う最後となる。菊次郎34歳のときである。その翌年には台北県支庁長に任じられ、さらにその1年後、1897年台湾の北東部の現在の県知事に相当する宜蘭の初代庁長を拝命する。菊次郎は妻子と共に宜蘭の庁長官舎に引っ越す。当時の庁長官舎は800坪(2640平方メートル)の敷地に74坪(244平方メートル)の平屋建てで幹部職員や校長の住宅と共に残っており、修復されて内部を見学することができる。

宜蘭庁長官舎(提供:古川 勝三)

菊次郎が渡台した頃の台湾は、風土病、アヘン吸引、原住民族、土匪(どひ)の襲撃という四重苦と戦っており、初代樺山資紀台湾総督以来、2年9か月の間に、2代桂太郎、3代乃木希典と3人が交代し、その間の台湾に対する軍人による統治政策は、治安行政の域を出ず、いたずらに莫大(ばくだい)な国費を消耗するのみで、完全に行き詰まっていた。台湾統治の問題は世論の非難攻撃の的となり、台湾を1億円でフランスに売却せよという議論まで起こるありさまであった。