戦後も地元住民に愛されている
完成した堤防によって、その恩恵の大きさに感激した宜蘭の住民有志は、1905年に『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ石碑を堤防の近くの民家の庭に設置して菊次郎を顕彰した。1923年に、菊次郎の名前を取って「西郷堤防」と命名されると、宜蘭の人士により巨大な石碑が造られ、この上に原碑を載せて中山橋の西側に設置をした。3年後には第2期工事が完成し、宜蘭の街は強固な堤防に守られ、安心して生活できる環境が整った。
しかし1945年日本の敗戦によって日本人はことごとく台湾から去り、その後に国共内乱で敗れた国民党軍とその家族200万人が台湾にやって来た。この戦後の混乱によって顕彰碑の存在が分からなくなっていたが、1990年に発見され宜蘭県文化局により中山橋横の堤防上に移築され、現在も菊次郎の徳政を後世に伝え続けている。
長い碑文の最後には「西郷公をしのぶに糸を買って像を刺しゅうする事なかれ、家々に線香を立て供える事もしてはいけない。最もふさわしい事は晋人が羊祐を記念して彫った「落涙碑」のようにすることである。西郷公の栄光を永々に伝えるべく、ここに碑を建立し、公の徳をたたえるものである」と記し、「宜蘭廳全各界士人健立」と彫り込んでいる。今日、多くの日本人が台湾を訪れるが、このことを知る日本人は少ない。恩ある人を決して忘れてはいけないという宜蘭人の誠意には頭が下がる。
帰国して2年後の1904年10月12日、第2代京都市長に就任し7年余りを勤めたが、その間にも宜蘭と同じくインフラ整備に力を注いだ。第二琵琶湖疎水掘削工事、上水道工事、道路拡張工事の「京都三大事業」を提案し、実施して京都都市整備の推進に大きな足跡を残した。菊次郎は宜蘭でも京都でも常にそこに住む民衆のために活動した政治家であったと言っても過言ではない。その後、鹿児島に帰り、永野金山(山ヶ野金山)の島津家鉱山館長を命じられ、8年余り在任した。就任すると菊次郎は、鉱業所で働く多くの炭鉱作業員の子供の健全な心身を養う場として、自費で武道館の建設や夜学校の開設、テニスコートを作って、山の中の住民にテニスを広めたり、アメリカ社会から学んだ発想で職員クラブを作ったりした。
菊次郎は1928年、鹿児島市の自宅において急死した。享年68、心臓まひだった。さつま町では、文武両道の人材育成に当たった氏の功績をたたえ、現在でも毎年11月、『西郷菊次郎顕彰剣道大会』が開催されている。
バナー写真=「西郷堤防」から宜蘭河と宜蘭市を望む(提供:古川 勝三)
