後藤新平に引き抜かれて電気局長に就任する

1911年、後藤の推薦により東京市初代電気局長に就任した松木は、4年後に愛媛県県北宇和郡吉田町(現宇和島市吉田町)出身の山下亀三郎に請われ、山下汽船の理事、副社長を務める。さらに、松木は道路法が制定された19年には、社団法人道路改良会(日本道路協会の前身)を設立し、理事に就任して道路の普及に努めた。

23年9月1日に関東大震災が発生、東京は壊滅的な被害を受けた。4月まで東京市長だった後藤は、自ら総裁とする帝都復興院を設置し松木を副総裁兼物資供給局長に、十河を経理局長に任命し、市長時代に作成していた「都市計画」を採用することにした。この案には復興院内部でも異論があったが、松木や十河らが主張する全面的な土地区画整理事業が採用される。ところが政党間の争いに遭い24年2月に復興院が廃止され復興局に縮小されると、後藤とともに松木も辞任した。

しかし後藤・松木が採用した復興計画は、今日に続く東京の都市づくりの基本となっている。30年3月には帝都復興完成記念式典が開催されるが、後藤はそれらを見ることなく29年4月に亡くなった。後藤は死ぬ前に「いいかよく聴け、銭を残して死ぬやつは下、仕事残して死ぬやつは中、人を残すやつが上だ。分かったか」と言ったという。台湾、満州、東京の都市計画を手掛けた73年の生涯であった。

復興現場を視察する後藤新平(左5人目)と松木幹一郎(左2人目)(提供:古川 勝三)

後藤が東京市長当時、台湾では近代化に必要な発電用ダムの建設と米の増産を目的とするかんがい用ダムの建設が急務だった。そこで台湾総督府は二つの巨大プロジェクトを計画した。日月潭水力発電所建設計画であり、もう一つが15万ヘクタールの不毛の大地をかんがいする嘉南大圳新設工事計画である。

日月潭水力発電用ダム工事は明石元二郎総督の決断により19年に開始された。3000万円で台湾電力株式会社を創設し、堀見末子技師らが設計を行った。巨大な予算もさることながら、その工事計画も驚く規模であった。

台湾最長の河川である濁水渓の海抜1300メートルの武界に高さ48.5メートルのコンクリート製重力式の武界ダムを設置し、そこから日月潭まで延長15.1キロメートル の距離を8本のトンネル、3カ所の開渠(かいきょ)、4カ所の暗渠で、毎秒約40トンの水を送る計画である。

日月潭の名称は、湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。中央の島にはサオ族の守り神(祖霊)が祭られていた。この計画によって日月潭の水位が上昇するため、2カ所に土堰堤(どえんてい)を築き、湖の水位を約18メートル上昇させることにした。このため二つの湖は完全につながり一つの人造湖ができることになった。この工事により、海抜748メートル、水深27メートル、周囲長37キロメートル、貯水量1億4000万トンの台湾最大の淡水湖が誕生する。日月潭の水は、約3000メートルの水圧トンネルと約640メートルにおよぶ5本の水圧鉄管により約330メートル下の発電所に送ると言う大規模な工事計画である。