与那国島出身で行方不明になった人々

日本で最も台湾に近い与那国島で、石底さんは生まれた。与那国島は、台湾との距離は最短で111キロしかなく、石底さんは日本統治期に台湾で漁師として働いた。終戦によって日本統治が終わった後は国民党政権によって留用され、台湾にとどまった。その名簿によると、高雄港務局台北弁事処で土木技手を務めたとされ、住まいは台北市京町(現在の台北市中正区博愛路の北門付近)である。

石底さんの名前は、国史館台湾文獻館所蔵の資料にも見つけることができる。日本統治期の台湾で働いた経験のある沖縄の漁民たちが組織した琉球漁民団の責任者であった。1946年11月4日付の文書によると、琉球漁民団の事務所は南方澳(現宜蘭県)に置かれており、そこが石底さん宅となっていた。南方澳は台湾有数の港町であり、台湾の中で最も与那国島と近い地点でもある。

二・二八事件が発生した当時、台湾と沖縄を結ぶ海には国境が引かれていたが、台湾からの引き揚げやいわゆる「密貿易」、漁業、密航などで人々の往来はたやすく、海で働く人たちであれば、台湾に複数の立ち回り先を持っていても不思議ではない。

石底さんは1947年2月下旬のある夜、与那国島の自宅を出ると、島南部の比川地区から船で台湾へ向かった。近所に住んでいた仲嵩實(なかたけ・みのる)さん(1917年生)も一緒に出掛け、二人ともそのまま行方不明になった。沖縄と台湾の交流史に詳しい又吉盛清沖縄大学客員教授の調査によると、二・二八事件に巻き込まれ、基隆で亡くなったというのである。

石底さんの遠縁で、生家が近所にある崎原のりさん(92)=那覇市=によると、石底さんは台湾から引き揚げてきた後、崎原さん宅に身を寄せていた。そこへ仲嵩さんが「早く行こう」と誘いに訪れ、二人して出かけていった。天気が良くなかったため、船を出すのを急いでいたという。崎原さんはふたりの姿を目にしてはいないが、話し声や物音でそう分かった。その後、「台湾で事件があって亡くなった、だれだれがどうしたこうしたって、島で噂が出たんです」(崎原さん)。

仲嵩さんの長女、徳田ハツ子さん(82)=那覇市=は崎原さんとは10歳違いで、事件当時、9歳。近所の人から「あんたのお父さんは台湾で亡くなった」と聞かされたという。行方不明になったのだと信じていた徳田さんは「なんで私のお父さんが死ぬの?」と反発したが、「カネという人も亡くなったよ」と畳みかけられた。「カネ」とは石底さんのことだと考えられる。その後、集落の外れにある墓地に近いシキハマと呼ばれる海辺で弔いの儀式を行った。

大工に頼んで作らせた木の容器に小さなにぎり飯と塩、生きたヒヨコを乗せて海に流したのだ。参列していたお年寄りが「台湾に行けよー」とか、「ヒリヨー、ヒリヨー、ヒリヨー」と言っていたのを徳田さんは覚えている。「ヒリヨー」とは与那国の言葉で「行けよー」という意味だという。

沖縄独特の黒い線香や黄色い紙銭で供養を行う遺族ら=2018年3月1日、台湾基隆市(筆者撮影)
沖縄独特の黒い線香や黄色い紙銭で供養を行う遺族ら=2018年3月1日、台湾基隆市(筆者撮影)