巻き込まれた沖縄出身者

長くタブーとされてきた二・二八事件が、台湾の外で注目を浴びることになるのは1989年公開の台湾映画「悲情城市」(侯孝賢監督)による。その後、1995年2月に李登輝総統(当時)による公式謝罪があり、同年4月には事件の真相究明と犠牲者への賠償(補償)を定めた「二二八事件処理及賠償条例」が定められる。石底さんと仲嵩さんの遺族も同法に基づいて認定・賠償を求めてきた。

では、沖縄ではこの事件はどのように認知されてきたのか。

発生からそう遠くない時期に発行されていた新聞をめくってみよう。石底さんや仲嵩さんの出身地、与那国島を含む八重山地方で発行の新聞「海南時報」は、発生から2週間後の1947年3月14日付で次のように伝えた。

「物資問題にからみ、台湾北方台北方面に端を発した国民軍と島民との争いは、去る7日、3000ないし4000の死傷者を出したが、長官に対する島民陳情が解答なされなかったため、4日のちの10日、さらに一万人の死傷者を塁出させた。それに対し、国民軍としては11日、台湾全島に戒厳令を敷き、鉄道、逓信、放送を停止せしめた」

見出しは「台湾に暴動」である。今でこそ二二八事件という呼び名が定着しているが、当時としては「暴動」と呼ぶほかなかったのであろう。

この記事が出た4日後、沖縄出身者が二・二八事件に巻き込まれかねない状況に陥っていたことを示す記事が載った(3月17日付)。「暴動は、今や少数残留沖縄民の引揚げを余儀なくさせ、彼等は漁具を棄てアタフタ逃げ帰った」というのである。南方澳から石垣に入港した漁船の乗組員は取材に対して「私たちの船主も、状況が悪いから逃げ帰るよう話しておりましたので、13日蘇澳を出て、石垣に向かったのです。私たちの船のほか、40隻くらいは引き揚げをいたしました」と語ったという。

ただ、沖縄出身者が事件に巻き込まれたとする報告がまとまるには2007年2月まで待つことになる。又吉氏が聞き取りなどを元にまとめた犠牲者のリストに仲嵩さんと石底さん、青山さんの名前が初めて登場した。事件発生から60年が過ぎていた。

二・二八事件という言葉が人口に膾炙し、犠牲者の認定制度が台湾の内外で知られている現在の感覚からすると、石底さんと仲嵩さんの遺族はなぜ死亡届を出したのかという疑問が沸く。しかし、二人の死亡届が受理された時期は、その真相の解明を求める声を上げることは困難な状況にあった。ただ、作成の経緯がどうであれ、公文書として客観性を持つ死亡届が遺族の前に立ちふさがっている。

二・二八事件の犠牲者認定制度を、韓国済州で起きた4・3事件や沖縄戦と比較しながら研究している済州大学の高誠晩教授は、台湾の犠牲者救済について「これまで本省人(中国国民党が台湾を統治する前から台湾にいた漢人)を犠牲者としてきたが、青山さんら(が犠牲者として認定されたこと)はこれを乗り越えた。過去の歴史を清算していくうえで素晴らしい成果」と分析し、犠牲者認定の範囲が国境や民族を越えて石底さんと仲嵩さんにも及ぶのか注視している。

具志堅さんは言う。「墓を開けて、中の壺に石しか入っていないよっていうのを台湾の人に見せたいなっていうのがあるんです」。仲嵩實さんの孫、當間ちえみ(63)=那覇市=も「(犠牲者の認定申請を)出した時から(墓に遺骨が入っていない状況を台湾から見に)『来てください』っていうことを言い続けている」と口をそろえる。

自宅で病死したとされているにもかかわらず、墓にはお骨がなく、代わりに石が入っているのを確認してほしいというこの願いが叶う日は来るのだろうか。

バナー写真=二・二八事件の記念式典で仲嵩實さんの遺影を手に献花する徳田ハツ子さん(左)。具志堅美智恵さん(右)は石底加彌さんの遺影とともに臨んだ=2017年2月28日、台湾台北市(筆者撮影)

参考文献

  • 河原功監修・編集「台湾引揚・留用記録」第8巻(1998年/ゆまに書房)
  • 国史館台湾文獻館所蔵「蘇澳鎮漁業生産合作社陳請琉球漁民團加入捕魚生産」(資料番号:00306520030007)
  • 「海南時報」(一部の表記を改めて引用した)
  • 高誠晩「〈犠牲者〉のポリティクス: 済州4・3/沖縄/台湾2・28 歴史清算をめぐる苦悩」(2017年/京都大学学術出版会)