死してもなお、村を想う~義愛公の誕生
これが森川巡査の台湾における生涯である。しかし、自尽から20年後、ある「奇跡」が起こった。
1923(大正12)年の2月初旬、台湾南部に流行性脳髄膜炎が蔓延した。台南一帯を恐怖に陥れ、南は麻豆、新化、北は北港からと、猛威は徐々に副瀬村に迫ってきた。
同年2月7日、保正を務めていた李九という者の夢の中に、黒マントを羽織った巡査が現れた。当時、台湾には警察の補助機関として「保甲制度」が置かれていた。これは地方行政の末端組織になっていた隣組制度で、「保正」とは、その長のことである。
夢の中で、巡査は「生水や生ものに注意せよ」と語ったという。そして、いくつかの場所と具体的な予防策を伝えた。翌朝、李九はすぐに村民を集め、指示に従って対策を施した。すると、病魔はこの集落を避けるように沈静化したという。
村人たちはこの巡査が森川であることをすぐに察知し、死後もなお、森川がこの地を愛し、護ってくれていることに感謝した。そして、朴子(ぼくし)に暮らす名匠・周啓元に依頼し、神像を設けることを決めた。この時、4度にわたって木が割れてしまい、途方に暮れていたところ、やはり、夢の中に森川が現れ、神像が完成したという逸話が残る。
祠(ほこら)は建て直され、ここに神像が祀られるようになった。ここに森川巡査は「神」として敬われることとなった。
語り継がれる巡査の逸話
富安宮には複数の祭神が並んでいる。そんな中、高さ40センチほどの義愛公は、黒マントを羽織り、剣に手を置いた姿で威厳を保っている。小さいながらも独特の風格が感じられる。
信徒はこれを「義愛公」と呼び、森川清治郎という名を用いることはほとんどない。これは神格化された霊魂は、すでに「人」ではなく、「神」であるという概念に基づく。こういった例は媽祖(林黙娘)も同様で、また、森川と同じく、日本兵士が「飛虎将軍」の名で神格化された杉浦茂峰(飛虎将軍・台南市安南区)にも当てはまる。
義愛公の「霊験(れいげん)」と「ご利益(りやく)」についても触れておきたい。人々はなぜ義愛公に手を合わせるのか。筆者が聞いたかぎりでは、遺失物や盗難品が戻ってきたという日常に根差したものや、悩み事が解決したとか、難題を解決できたとか、運気が回ってきたというもの、そして、勝利を得たといったものまで幅広い。
しかし、何よりも重要とされるのは病気の治癒であろう。かつて台湾は「瘴癘(しょうれい)の地」と言われ、マラリアやペスト、脚気(かっけ)など、多くの疫病が存在した。都市部を除けば、医療施設は無いに等しく、病に罹れば死を意味するという状態だった。また、長らく人々を苦しめてきたトラホーム(結膜炎)など、生活を脅かす病も多かった。ちなみに、当時の平均寿命は50歳前後であり、乳幼児の死亡率も非常に高かった。
義愛公はこの地に衛生観念を植え付け、疫病から人々を守った存在とされている。そして、「病魔退散」という意味合いにおいては、現在も人々の日常と結びついているのである。
日本統治時代のみならず、戦後もまた、病魔と向かい合う中で、人々は義愛公に手を合わせ、平穏を祈願してきた。現在は医療技術の進化や制度の充実によって、地域に暮らす人々の生活も一変しているが、義愛公信仰は健康祈願や現世安穏といった形で息づいていると言ってもいい。

