『真崎辺りより水神の森内川関谷の里を見る図』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第58回

歌川広重「名所江戸百景」では第36景となる『真崎辺りより水神の森内川関谷の里を見る図』。斬新な構図で、隅田川と梅の花、筑波山を描いた、創造力を掻き立てる春の一枚である。

浅草の北にあった料亭から隅田川、水神、筑波山を望む

名所江戸百景で最も長い題が付く、梅を描いた春の景だ。桜の絵として有名な『隅田川水神の森真崎 』とは、対岸からの眺めとなる。

江戸時代、浅草の北、現在の橋場や南千住の隅田川沿いでは、真崎稲荷明神社(現・石浜神社内の真先稲荷)や石浜神明宮(現・石浜神社、荒川区南千住)が名所であった。周辺は景勝地で、「真崎」または「石浜真崎」と呼ばれたという。

対岸の向島北部、鐘ヶ淵、隅田村(現在の墨田区墨田付近)方面では、水神(現・隅田川神社)や木母寺(もくぼじ)が知られていた。広重の時代は隅田川が荒川の本流で、千住大橋辺りから東へと流れてきた大量の水は、現在の南千住に沿って南へと急カーブする。そのため、洪水が多い地域で、水神は隅田川の守り神として信奉を集めた。

広重は真崎の料亭から、近景と遠景を組み合わせたお得意の手法で、丸い窓越しに対岸の上流側を描いている。下から伸びた梅の花、左隅の柱に生けられた白椿から、まだ肌寒い時期だと分かる。それでも障子を開けて、雁(かり)の編隊が飛ぶ、早春の夕暮れの風景を愛でているようだ。

『隅田川水神の森真崎 』も対岸から上流側を見ているのだが、方角が違うのに、どちらにも男体山と女体山の2つの頂を持つ筑波山が登場する。『隅田川水神の森真崎 』の稿で「この方角(北西)に筑波山を望むことはできない」と書いたように、今回の絵の北東方向に筑波山は見える。江戸の中心部より大きく見える筑波山は、北部のアイコンであったために、広重は両方の絵に描き込みたかったのではないだろうか。

『隅田川水神の森真崎』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第35回
『隅田川水神の森真崎』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第35回

筑波山の前に広がるのが、「関谷の里」(現・千住関屋町、千住曙町付近)と呼ばれた一帯。その近くに浮かぶ帆船の右側、隅田川の支流のように続くのは、大きな入り江「内川」だ。右岸の森の前には水神の鳥居があるが、障子に遮られて左半分しか見えず、気付かない人も多いだろう。

真崎には豆腐田楽が名物の茶屋や料亭が数軒あった。風流を好む旦那衆が吉原へ向かう前に、腹ごしらえをしたり、待ち合わせに利用したりしたらしい。広重もこの部屋で、版元か狂歌仲間といった風流人を待ちながら、外の景色を楽しんでいたのだろう。窓の近くの屋根船は、待ち合わせ相手が乗ってきたのか、吉原へと通う客を迎えにきたのか、さまざまな想像をしてしまう。まさに「広重は情緒的に描く」と評される要素が満載の名画である。

梅の咲く時期の夕方、石浜神社付近の隅田川で撮影に挑んだ。対岸はかつての風景とは大きく異なるのは言うまでもない。内川は埋め立てられ、川沿いを走る首都高速道路によって隅田川神社も見えない。元絵の面影は、川の水面と、「水神大橋」という橋の名称くらいだ。石浜神社の北にある汐入公園で、きれいに咲く梅を見付けたので、撮影して対岸の風景にはめ込んでみた。隅田川の緩やかな流れと澄んだ空気に、薄紅色が映え、早春の陽気が感じられたので作品とした。

●関連情報

隅田川、橋場の渡し、石浜神社、真崎稲荷

隅田川は元々、荒川水系の入間川の下流部分であった。江戸時代初期の治水工事で、荒川が入間川に合流し、荒川本流の下流部となる。昭和初期に岩淵水門(北区)から、千住の北部を迂回(うかい)しながら、中川河口に導く荒川放水路が完成。現在は放水路が荒川本流となり、隅田川は岩淵から東京湾までの一級河川となった。

隅田川で最も古い渡船場が「橋場の渡し」。鎌倉時代に整備された奥州街道(鎌倉街道下道)は、石浜村付近で戸田川(後の隅田川)を渡ったとされ、室町中期の地図にも示されている交通の要所であった。江戸時代になって日本橋を起点とした五街道が整備されると、奥州街道は千住大橋を渡るルートに変わったが、橋場の渡しは景勝地の渡船場としてにぎわったようだ。千住大橋から、綾瀬川が流れ込む隅田川が大きく曲がる地点までの一帯が「関谷の里」である。同じ場所が「関谷の里」、「鐘ヶ淵」とどちらでも呼ばれるなど、重なる範囲もあったので、地名というよりは、漠然とした地域の愛称といったものだろう。橋場の渡しは、「真崎の渡し」「白髭の渡し」とも呼ばれ、時代によって場所も移り変わっているようだが、大正時代に白髭橋が架かると、渡船場は消滅した。

現在、白髭橋西詰には石浜城址公園(南千住)があり、その北側に石浜神社が鎮座する。奈良時代の創建と伝わり、伊勢神宮の内宮(ないくう)・外宮(げくう)の祭神である天照大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祀っている。1836(天保7)年に刊行された『江戸名所図会』によると、「朝日神明宮」あるいは「石浜神明宮」と親しまれ、芝神明宮同様、江戸の庶民が伊勢参りのご利益を求めて訪れたという。

石浜神社の下流に隣接していた真崎稲荷明神社は、石浜城に居を構えていた武蔵千葉氏の守胤(もりたね)が、16世紀に創建したと伝わる。守胤が「真っ先駆けて武功を立てる」を信条としていたため、真崎は「まっさき」と読まれるようになったそうだ。

真崎稲荷の傍らには野狐(のぎつね)の穴があった。神主が油揚げを置き、「おいでおいで」と手を打ち、狐が出て来て食べると願い事がかなうという逸話が残る。その場所に建てられた奥宮・招来(おいで)稲荷が人気を呼び、参道には豆腐田楽を出す茶屋や料亭が並んだ。1926(大正15)年、真崎稲荷と招来稲荷は石浜神社境内へ遷座。真崎稲荷は現在、本殿の右端に「真先稲荷神社」として祀られている。

『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)の千住大橋から橋場の渡しにかけて切り取った。橋場の渡しは「マッサキノワタシ」とあり、その左「イナリ」と書かれた寺社地が真崎稲荷、その左上「シンメイ」と書かれた寺社地が石浜神明宮だ。対岸には「水神」「木母寺」の寺社地があり、その上の入り江が内川である。内川の上から関谷天神までの一帯が「関谷の里」と呼ばれていた
『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)の千住大橋から橋場の渡しにかけて切り取った。橋場の渡しは「マッサキノワタシ」とあり、左の「イナリ」と書かれた寺社地が真崎稲荷、その左上「シンメイ」が石浜神明宮。対岸には「水神」「木母寺」の寺社地があり、その上の入り江が内川である。内川の上から関谷天神までの一帯が「関谷の里」と呼ばれていた

江戸名所図会7巻(国会図書館蔵)より。上半分が石浜神明宮で下半分が真崎稲荷である。いずれも広い境内に数多くの社殿が立ち並ぶ
江戸名所図会7巻(国会図書館蔵)より。上半分が石浜神明宮で下半分が真崎稲荷である。いずれも広い境内に数多くの社殿が立ち並ぶ

現在の石浜神社の本殿。右端にある真先稲荷側から撮影した
現在の石浜神社本殿。右端にある摂社・真先稲荷側から撮影した。真先稲荷の向かい、一段低い場所に招来稲荷がある。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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