『両ごく回向院元柳橋』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第104回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第5景となる「両ごく回向院元柳橋(りょうごくえこういんもとやなぎばし)」。相撲興行を知らせる櫓(やぐら)太鼓越しに、隅田川と江戸の町、富士山を望んだ春を告げる1枚である。

巨大な櫓太鼓は、取り戻した日常の象徴

幕末の江戸っ子は、境内の様子が描かれていなくても、この巨大な櫓太鼓を見れば、すぐに両国の浄土宗寺院「回向院」(現・墨田区両国2丁目)だと分かった。勧進相撲の開催を知らせる太鼓で、高さ5丈7尺(約17メートル)もある櫓の上で打ち鳴らされるため、江戸中に響き渡ったという。

回向院は明暦の大火の犠牲者を追悼するため、1657(明暦3)年に創建。今回の絵には登場しないが、枠外のすぐ右(北)には、同じく明暦の大火をきっかけに両国橋が架けられている。それまで隅田川には千住大橋しかなかったが、両国橋を皮切りに、新大橋や永代橋などが誕生し、東岸の本所・深川・向島が一気に発展していく。

両国橋には延焼を防ぐため、両端に火除(ひよけ)地が設けてあった。夏の川涼みの時期には、仮設の芝居小屋や茶屋が立ち並び、西詰には江戸一番の繁華街「両国広小路」が形成される。回向院の参道は、両国橋の東詰めから真っすぐ続いていたため、山門前はにぎわい、交通の要所となっていった。

隅田川の両岸から人が集まりやすいという地の利を生かし、回向院は江戸中期頃から「出開帳」を頻繁に開催した。信州の善光寺を筆頭に、全国の名刹(めいさつ)から秘仏を運んで特別公開するもので、江戸時代を通じて総計160回を超え、毎回大盛況だったという。江戸庶民からは「イベントの多い寺」として親しまれたが、その印象を決定付けたのが相撲興行である。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、両国橋周辺を切り抜いた。「回向イン」の当時の山門は両国橋に近く、櫓太鼓はこの脇に建てられた。両国橋西詰の火除地(広場)の南に「元ヤナキハシ」と記載がある
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、両国橋周辺を切り抜いた。「回向イン」の当時の山門は両国橋に近く、櫓太鼓はこの脇に建てられた。両国橋西詰の火除地(広場)の南に「元ヤナキハシ」と記載がある

相撲は芝居吉原遊廓と並ぶ、江戸三大娯楽の一つである。その起源は神事で、次第に武芸化し、江戸時代には神社仏閣の資金集めを名目に「勧進相撲」が開かれるようになった。

江戸時代初期の相撲は、勝敗をめぐる争いが絶えなく、賭博など風紀の乱れにつながった。そのため、幾度か禁止令が出た後、寺社奉行の監督下で、主催団体の組織化などを条件に開催されるようになる。幕府公認の初興行は1684年、会場は深川・富岡八幡宮だった。以降、さまざまな寺社の境内で勧進相撲が行われるようになり、回向院での初開催は1768(明和5)年。過去最大規模の興行は好評を博し、回向院の相撲が定例化していく。1833(天保4)年には、春秋2回の定場所となったことで「回向院相撲」と呼ばれ、両国は相撲の本場となったのだ。

観劇や廓(くるわ)遊びに比べ、金の掛からない相撲見物は、庶民の娯楽として広く人気を集める。境内には、場所ごとに仮設の相撲小屋を建てるのだが、土間席と2階建ての桟敷席があり、約1万人も収容したという。場所の期間は10日間あるため、延べ10万人を動員する人気イベントだった。さらに回向院に足を運べない人も、番付表や星取表に一喜一憂したというから、櫓太鼓の音を聴けば、江戸中が心躍らせたであろう。

1842(天保13)年 広重筆の『東都名所両国回向院境内全図』(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)は、相撲興行中の風景を描いている。国技館建設以前は、境内南側に場所ごとに大きな仮設会場が作られ、西側の山門横に太鼓櫓が立った。現在の回向院山門は、この絵の左下(北側)付近となる
1842(天保13)年 広重筆の『東都名所両国回向院境内全図』(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)は、相撲興行中の風景を描いている。国技館建設以前は、境内南側に場所ごとに大きな仮設会場が作られ、西側の山門横に太鼓櫓が立った。現在の回向院山門は、この絵の左下(北側)付近となる

広重は櫓越しに、西方向を俯瞰(ふかん)で描いた。隅田川の両岸には家々が並び、遠くには雪化粧をした富士山がくっきりと見える。対岸の中央に架かるのが元柳橋で、その奥には運河の薬研(やげん)堀が続く。上流側の枠外右側には両国橋があり、両国花火の際には目の前で打ち上がる華やかな場所だった。

名所江戸百景は、1855(安政2)年の安政江戸地震(1855年)から復興する江戸の姿を描いた。回向院相撲でも、同年の秋場所は中止となっている。翌年は2場所とも開催できたが、隅田川付近は追い打ちをかけるような台風被害を受け、盛り上がりに欠けたであろう。今回の絵が描かれたのは1857年の春場所で、隅田川沿いの真新しい瓦屋根や、川を往来するたくさんの船や筏(いかだ)などから、復興の力強い歩みが感じられる。「取り戻した日常」の象徴として、江戸っ子が大好きな相撲のアイコンを登場させることで、広重は勇気と希望を与えようとしたのかもしれない。

現在の回向院からは、首都高・向島線に阻まれて隅田川を望めない。隅田川堤防に出て西の方を眺めると、薬研堀も埋め立てられているのだが、かつて元柳橋があったところに、絵に登場する橋に似た階段が設置してある。その前を水上バスと小型ボートがすれ違う瞬間に、シャッターを切った。現在の両国国技館前に立つ、梵天(ぼんてん)が空に突き出すように飾られた櫓を合成し、作品に仕上げた。

●関連情報 櫓太鼓と両国国技館

相撲の櫓太鼓は、幕府公認を示すとともに、伝達手段が少ない江戸時代には、大切な役割を担っていた。開場を知らせる朝の「一番太鼓」や終わりを告げる「はね太鼓」などに加え、客を集める「呼び太鼓」などがあり、打ち方の違いで客に情報を伝えていた。櫓の下には大きな番付表が設置してあり、そこにも多くの人が群がったという。

櫓の上の梵天飾りは、晴天を祈るもの。当時の相撲は仮設小屋での開催のため、雨が降ると中止になったので、毎回10日開催できたわけではないのだ。現在の両国国技館でも、櫓の上から空に向けて、梵天飾りを出している。当然、雨天中止にはならないが、客足には影響が出るため、古くからの風習を守り続けているようだ。

相撲は明治維新後も、回向院境内で開催されていたが、1909(明治42)年に鉄骨の常設会場「国技館」が完成した。その後、火災や震災、戦災、連合国軍総司令部(GHQ)による接収などを経験し、その度に建て替えや修復をしながら、両国での相撲興行は約120年も続いた。1954(昭和29)年に蔵前国技館が落成すると、大相撲の興行は約30年間、聖地・両国を離れた。再び両国に戻ったのは1985年1月場所から。現在の両国国技館は、先代よりもだいぶ北に位置し、回向院とは少し離れてしまった。

今でも地方巡業などで、「櫓太鼓打分(うちわけ)」が披露されている。かつて「一番太鼓」は情報伝達のためだけでなく、「天下泰平」「国家安穏」「五穀豊穣(ほうじょう)」を祈ってたたかれたという。広重が櫓太鼓を大きく描いたのにも、そうした願いが込められていたのかもしれない。

2022年1月場所の直前に撮影した両国国技館。すでに櫓には、梵天や紅白幕が飾られていた
2022年1月場所の開幕直前に撮影した両国国技館。櫓の上では、梵天が風に揺れていた

隅田川テラスの元柳橋があった場所に設置された、アーティスティックな階段。薬研堀と元柳橋を意識したのか、対岸からは太鼓橋のように見える
隅田川テラスの元柳橋があった場所に設置された、アーティスティックな階段。今はなき薬研堀と元柳橋をしのんでデザインしたのか、対岸からは太鼓橋のように見える

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

観光 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 浮世絵 墨田区 隅田川 隅田川花火大会 江戸時代 江戸 寺院