『高田姿見のはし俤の橋砂利場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第119回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第116景となる「高田 姿見のはし 俤の橋 砂利場(たかた すがたみのはし おもかげのはし じゃりば)」。美しい弧を描く土橋と、奥に広がるのどかな田園風景を描いた冬の1枚である。

かつての奥州道に架かる風流な名の橋

高田の地名は現在も、豊島区高田(たかだ)として残る。神田川北側の低地と、雑司ヶ谷や目白のある関口台地を結ぶ地域で、急な坂道が多いことで知られている。

神田川の対岸は、新宿区の西早稲田や高田馬場。かつては、この辺りから西は落合、北は目白、南は戸山までの広域を「高田」と呼んでいたようだ。西早稲田の高台には江戸時代、幕府の武術訓練施設「高田馬場(たかたのばば)」があり、江戸っ子には知られた地名だった。

絵のタイトルには「姿見の橋」「俤の橋」と、2つの橋の名が登場する。『名所江戸百景』の画題は、近くから遠くに向かって地名や施設名などを並べるが、今回の絵では珍しく、俤の橋が手前に描かれている。この橋は現在、都電荒川線(東京さくらトラム)の駅名にもなっている「面影橋」のこと。

この橋の北側では、質の良い玉砂利が採取できたので、低地一帯に広がる農村は「砂利場村」とも呼ばれたようだ。広重は西早稲田から神田川越しに、高田の砂利場村から雑司ヶ谷に続く斜面を望んでいる。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)より、高田馬場(中央下)から雑司ヶ谷(中央上)までを切り抜いた。神田川は「井ノ頭上水」、面影橋は「ヲモカケノハシ」と記載されている
『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)より、高田馬場(中央下)から雑司ヶ谷(中央上)までを切り抜いた。神田川は「井ノ頭上水」、面影橋は「ヲモカケノハシ」と記載されている

姿見の橋の方は、すぐには見つけられない。絵の右側をくねくねと走る道の途中に、小さく描かれている。この道は現在の「宿坂通り(しゅくざかどおり、宿坂道)」で、中世まで利用された古奥州道で、鎌倉時代には「宿坂の関」が置かれたと伝わる。

江戸時代になると奥州街道は、日本橋から東の隅田川沿いを進み、千住で大橋を渡るルートに変わった。しかし、宿坂道沿いには、砂利場村に御府内八十八箇所霊場の29番札所「南蔵院」や高田から雑司ヶ谷にかけての総鎮守「氷川明神社」(現・氷川神社)、斜面の始まりには目白不動尊で知られる「金乗院」といった名所が点在し、にぎわいを残した。

姿見の橋部分を拡大。橋の左上に氷川明神社の鳥居、右上の端には南蔵院の大屋根の一部が描かれている
姿見の橋部分を拡大。橋の左上に氷川明神社の鳥居、右上の端には南蔵院の大屋根の一部が描かれている

俤の橋、姿見の橋という趣のある名は、南蔵院の山号「大鏡山」と関係があるらしい。今回の絵の20年ほど前に出版された『江戸名所図会』によると、かつて寺の南側に大きな池があり、「鏡の池」と呼ばれていたという。そのため、両橋も鏡から連想した名が付けられたが、鏡の池は江戸末期になると小川のようになってしまったようだ。

江戸名所図会の俤の橋についての解説には、「昔は板橋なりしが、近頃は土橋となれり」と書かれている。当時の橋には、歩道部分に平らな板を並べたものと、丸太を並べただけのものがあった。丸太橋には欄干もない橋が多く、凹凸して歩きにくい。そのため、土をかぶせて平らに踏み固めることが多く、それを土橋と呼ぶ。

俤の橋は20メートルを超える土橋で、広重の時代には橋の両脇にびっしりと草やコケが生えている。その優雅な緑の曲線が、神田川の水や奥に広がる砂利場村の田園風景、関口台地の豊かな自然、奥に見える山影と美しく調和する。広重はまだ歴史が浅い新名所として、俤の橋を主役に構図を練ったのではないか。

現在、砂利場村だった川近くの低地には建物がひしめき、コンクリート護岸された神田川には鉄橋の面影橋が架かる。春には川沿いに植えられた桜が咲き誇るが、その背景には風光明媚(めいび)な景観は全く残っていない上に、広重と同じ角度で橋を収めるには、桜の枝が邪魔になってしまう。完全に落葉した冬の午後に、脚立と長い一脚を使って、面影橋を見下ろすようにシャッターを切った。

関連情報

面影橋、姿見の橋、南蔵院、都電荒川線

江戸名所図会の「俤の橋」の項には、「この橋を姿見の橋と思うは過ちなり」とある。実際に、江戸時代の地図を調べてみると、俤の橋の場所に「姿見の橋」と記述しているものを見つけた。現在の面影橋南詰にある新宿区の解説板でも、「俤の橋・姿見の橋」と同一の橋のように併記し、「姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります」と付け加えている。

そのため、広重も両者の名を入れ違いで覚えていたという説がある。それならば、画題の順番にも合点がいくのだ。

『江戸名所図会』7巻「姿見橋 俤のはし」(1836年頃刊、国会図書館蔵)は、広重と同じ方向を横構図で描いている。比較すると、広重が面影橋を強調しているのがよくわかる
『江戸名所図会』7巻「姿見橋 俤のはし」(1836年頃刊、国会図書館蔵)は、広重と同じ方向を横構図で描いている。比較すると、広重が俤の橋を強調しているのがよく分かる

橋の名の由来とされる大鏡山南蔵院は、14世紀の創建とされる。円成比丘(えんじょうびくう)という僧が、平泉(現・岩手県)の農家で、奥州藤原家が所蔵し、聖徳太子作と伝わる薬師如来像を発見。それを持って各地を行脚していると、この地でにわかに重くなって動かせなくなったため、有縁の地と捉えて草堂を建てて納めたそうだ。この逸話も、宿坂道が古奥州道だったことの証しといえる。

今回の絵の一番奥に登場する山を、雑司ヶ谷の高台だとする説があるが、筆者は王子の飛鳥山と推測する。左側が急に下っている形状に加え、古奥州道だったことを重視したい。中世の古奥州道は鎌倉から始まり、江戸周辺では渋谷から千駄ヶ谷、面影橋、雑司ヶ谷、王子、三ノ輪を抜け、橋場で隅田川を渡って北へ向かった。当然、広重もそれを知っていたから、遠くには王子のシンボル・飛鳥山を描き、昔の旅路を感じさせようとしたのではないだろうか。

南蔵院門前から宿坂通りの南方向を望む。道の右側は、江戸時代に南蔵院が別当として管理していた高田の総鎮守、高田氷川神社。姿見の橋は、手前のカーブと奥のカーブの中間あたりにあったと思われ、その先には面影橋がある
南蔵院門前から宿坂通りの南方向を望む。道の右側は、江戸時代に南蔵院が別当として管理していた高田の総鎮守、高田氷川神社。姿見の橋は、手前のカーブと奥のカーブの中間あたりにあったと思われ、その先には面影橋がある

古奥州道は都電荒川線のルートと重なる。早稲田から面影橋を抜け、雑司ヶ谷、王子を通り、三ノ輪橋まで走る都内唯一の路面電車だ。

筆者が物心ついた頃には、都内のどこでも路面電車が走っていたが、小学生になった60年代後半から70年代頭にかけて次々と廃止となる。思えば、初めて父のカメラを借りて撮影したのは、路線廃止直前の花飾りした都電だった。今では写真家を名乗って、『名所江戸百景』全119景の連載を書き終えるにあたり、都電の写真で締めくくることは非常に感慨深い。

都電荒川線の「面影橋」駅から撮影。左端に面影橋のグリーンの欄干が見える
都電荒川線の「面影橋」駅から撮影。左端に面影橋のグリーンの欄干が見える

初めて撮った写真を思い出しながら
自分自身で初めて撮った写真を思い出しながら

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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