特集 震災復興の現実
東日本大震災から4年・宮城県女川町ルポ
漁業生産高は回復、課題は水産加工の復活と宅地造成

菊地 正憲【Profile】

[2015.06.18] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS |

東日本大震災から4年。800人を超える犠牲者を出した宮城県女川町に2015年3月、鉄道が復旧した。新たな町づくりを加速させる水産業の町をルポする。

鉄道再開で活気を取り戻した町

「歓迎 ようこそ女川町へ」

こんなメッセージが書かれた真新しい青い横断幕が出迎えてくれた。2015年6月初め、宮城県東端部にある女川町のJR女川駅のホームに降り立った直後のことだ。汗ばむ晴天の下、明るい茶系の色をした鉄骨3階建ての新駅舎が、建物がまばらな周囲の風景の中でひときわ存在感を放つ。家族連れやカップルたちが、スマートフォンで盛んに記念撮影している。駅舎には温泉施設が併設されていて、平日の昼間にもかかわらず、かなりの人で賑(にぎ)わっていた。

女川駅を東の終点とする石巻線は、今年3月21日、東日本大震災で被災して以来、4年ぶりに全線開通したばかりだった。女川は海岸から内陸にかけて山に囲まれたくぼ地になっているため、津波は山肌を這(は)うようにして20メートルもの高さにせり上がった。他の被災地と比べても巨大な規模だった。中心市街地は根こそぎ流され、駅舎も破壊された。死者・行方不明者は827人を数える。

あの日以来、町は国や県の補助を得ながら、およそ2年を費やしてがれきを撤去し、並行して女川港や道路の整備のほか、女川駅周辺に展開する中心市街地の土地のかさ上げ、高台の宅地造成などを急ピッチで進めてきた。筆者自身、震災直後に女川入りし、今回で4回目の訪問となる。今は、4年前の惨状と比べれば、陸地も港付近も、見違えるほどに整地されているのが分かる。駅の周囲にはまださら地が広がるが、駅前の広場や遊歩道が整備され始め、近くには建設中の店舗も目立ってきた。

土地のかさ上げと整地が進む女川駅周辺。右側の建物は女川町地域医療センター(震災時は女川町立病院)。津波は高台にある建物の1階部分まで到達し、壊滅的な被害をもたらした。

若者主役の町づくりはこれから

駅の再開から1週間後には、起業を目指す若者らの交流施設として、近くに「フューチャーセンター」も開設された。運営主体は、創業支援や人材育成活動を2年前から続けるNPO法人「アスヘノキボウ」だ。これまでに町内の宿泊村「エルファロ」の企画と立ち上げに携わったほか、アート工房やカフェの創業などを次々と実現させた。代表理事を務める仙台市出身の小松洋介さん(32歳)は、「女川は、大都市の仙台と比べて町民同士の絆が強く、若い世代を上の世代が手助けしてくれる気風があるので、非常に心強かった」と話す。

鉄道が再開したことで来訪者が増えて、活気が出てきたのを実感するという。とはいえ、若者が主役の町づくりは、緒に就いたばかりだとも強調した。

「次につなげることが何より大切です。これからも町外から多様な人々を呼び込んで、資金を上手に調達し、事業を定着させるのを手助けしていきます」

駅前広場の周囲は、まだ建物はまばらだ。奥に「フューチャーセンター」が見える。

次に、駅から海側に歩いて15分ほどの距離にある宮城県漁協女川町支所に向かった。

「被災した他の町よりも、復旧は進んでいる方でないべか。あれだけやられたにしては、頑張ってると思うよ」

40年以上前から女川の主力水産物であるホタテの養殖業を営む漁業者、伊藤和幸さん(66歳)はこう言って、いくぶん和らいだ表情を見せた。津波が襲ってきたときには、海岸の作業場からトラックに乗り込み、なんとか高台に逃げた。が、自宅も、13台あった養殖用の筏(いかだ)も流された。行方不明のままになっている妻の母親をはじめ、多くの親類や知人を失っている。

「春の出荷直前のホタテが全滅だもの。あれは本当に痛かった。まずはがれきを片付けなきゃならないし、ゼロではなくて、マイナスからのスタートだったよ」

震災前を上回った漁業生産高

それでも、再起に向けて立ち上がるのは早かった。仮設住宅から浜まで通い、1カ月後には筏をまず3台再建。北海道から稚貝を取り寄せて養殖を再開し、現在は10台にまで増やした。国などの補助を受けて船も再建した。今年の漁獲高は震災前の水準だった約1000万円に戻った。昨年暮れには、念願の自宅も高台に建てた。伊藤さんは、少し真剣なまなざしになって、次のように話した。

ホタテ養殖業を営む伊藤和幸さんは、漁獲高を回復させた。「懸命に努力して、壊滅からようやくここまで来ました」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。

「心の痛みはこれからも続く。被災して漁師をやめた仲間も多い。でも、長年続けてきたホタテの養殖には強い愛着があったし、意地もあった。ようやく光が見えてきた」

実際、女川の基幹産業である漁業と水産加工業のうち、とりわけ漁業の復活ぶりには目を見張るものがある。

女川では、ホタテに限らず、ギンザケ、カキ、ホヤといった他の特産品の養殖も比較的早く再開した。サンマなどの近海魚の水揚げもほぼ順調に回復している。同支所や町の統計によると、現在の町内の漁業者数は、震災直前の約570人から約410人に落ち込んだものの、昨年度の漁業生産高は、震災直前の水準の50億円弱を上回る55億円に達した。同じ三陸海岸の北方の漁港よりも、大消費地である仙台市や、仲買人が多く集まる石巻市に距離的に近いことも、流通機能を復活させる上で幸いしたという。

ただ、生産高の増加は、主にここ数年の魚価高によるものだ。漁獲量は、震災前のまだ8割程度にとどまっており、魚価を維持しながら、量を確保するのが今の課題になっている。もうひとつの主軸産業である水産加工業は、一定の水揚げ量を前提として成り立つからだ。

「町の皆が助け合って復興するという意味もあって、私たちにも、できるだけ高い価格で入札するという不文律のようなものがありました。でも、水産物の量はまだまだ回復していないし、港周辺の水産加工場も、今年に入ってようやく、いくつか稼働を始めたばかりです」 

地元の魚介類を買い受ける水産加工業者などで組織する女川魚市場買受人協同組合の石森洋悦(ようえつ)副理事長はこう話し、「楽観はできない」と気を引き締める。

女川魚市場買受人協同組合の石森洋悦副理事長は「女川はまちが根こそぎやられたから、町民がひとつになれた。いろいろと議論はするが、決まったら動くのは早いんです」。

中東・カタールの支援で動き出した水産加工

それでも、女川を支える漁業、魚市場、水産加工業の歯車は確実に回り始めているという。ひとつのきっかけになったのが、中東のカタールが大震災の復興支援を目的に設立した基金からの資金援助を得て2012年秋に完成した、最新鋭の多機能水産加工施設「マスカー」だ。建設費は20億円で、1階が荷さばき室、2階が貯蔵能力6000トンの冷凍・冷蔵庫、最上階の3階が緊急避難場所になっており、100年に1回襲う規模の津波に耐えうる構造だ。同組合が運営主体となり、水産加工業者が共同で使用している。

「サンマ、サバ、ギンザケ、カツオなどが次々と運ばれてきて、昨年秋以降、満杯の状態です。駅舎とともに、女川の復活の象徴にもなっています。女川には独立の気風があり、みんな深い悲しみを胸に抱きながら、そうした象徴を土台として、派生的に町づくりをしようとしています。それが少しずつ形になっています」

石森さんはこう言って頰を緩めた。震災前に町内にあった冷凍・冷蔵施設の貯蔵能力は総計5万3000トンだったから、マスカーはその9分の1ほどの規模。不足分を補うため、同組合は、近隣地区に同様の冷凍・冷蔵施設を建設中だ。

女川港の復旧はかなり進んでいる。左の白い建物が多機能水産加工施設「マスカー」。その名はカタールの伝統漁法にちなんでいる。施設内の冷蔵・冷凍貯蔵室は、マイナス30度に保たれていた。10秒もいると、体が凍えて震えてくるような寒さだ。

宅地造成の遅れで続く人口減少

約1万人だった女川町の人口は、津波による死者・行方不明者に加え、町外転出者が多数出たため、3000人減って現在は約7000人となり、さらに減る傾向にある。宅地の造成と災害公営住宅の建設の遅れなどにより、仮設住宅の入居率は8割と依然高く、そこで生活する人が2100人強も残っている。災害公営住宅は、予定している1000世帯分のうち250世帯分が完成している。須田善明町長は、2年前の前回の取材で「公営住宅の建設を今後5、6年で済ませる」としていたが、今回は「宅地の造成に3カ月以上の遅れが出てしまった」と話し、背景や対策についてこう説明した。

「当初のボーリング調査では分からなかった固い岩盤が出てきたり、膨大な数の地権者の権利移転手続きに時間がかかったりしている。地盤沈下による冠水の対策工事にも手間取っている。これ以上の遅延を招かないように、工法の工夫や見直しにより工期を短縮したい。岩盤を破壊する新たな工法として、最近、被災地の中では当町が初といわれる発破作業を導入した。従来の重機に頼る工法と比べて、迅速化の点で成果が出ている」

女川町内の高台に建つ災害公営住宅。宅地造成工事は遅れ気味だが、町は今後、工法を変更するなどして遅れを取り戻すとしている。

水産業復興の要となる港の復旧については、岸壁関連の整備を本年度中に終えて、ほぼ全面的に使用可能な状態にするという。「その後は、やはり地元に揚がった魚介類を扱う水産加工業の復活がカギになる。これから2年ほどかけて、工場の再建や進出のニーズに応えられる用地造成を終えたい」(須田町長)

復興の拠点となる施設が相次いで完成し、人やモノ、産業が再び動き出した女川町。道のりはなお険しいが、行政と町民、さらには町外の人々との連帯を深めながら、着実に歩を進めている。

バナー写真=東日本大震災の津波で旧駅舎が流されてから4年ぶりに再開したJR女川駅。新駅舎は建築家の坂茂(ばん・しげる)氏が設計

写真撮影=菊地 正憲

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  • [2015.06.18]

ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。『北海道新聞』の記者を経てフリーに。『AERA』『中央公論』『新潮45』『プレジデント』などの雑誌を中心に人物ルポ、社会派ルポなどを執筆。著書に『速記者たちの国会秘録』(新潮新書/2010年)ほか。

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