大学時代に骨肉腫で右脚を切断。義足で走り幅跳びに挑み、3回連続でパラリンピック出場を果たした谷真海選手。結婚、一児の母となってからより過酷なトライアスロンに転向し、仕事、練習、育児に全力投球の日々だ。
トライアスロン転向後初の世界大会で優勝
馥郁(ふくいく)たる笑み、とでも言うのだろうか。トライアスロン・パラアスリートの谷真海が見せる笑顔は、春の日だまりのように誰をもほんわかと温かい気分にさせる。笑顔の似合う人は数多くいるが、心根から香り立つような笑みを浮かべられる人は、そう多くない。
「笑顔がいいとはよく言っていただけますが、さまざまな苦い経験を味わってきたせいか、日常のささいなことに感謝と幸せを感じるんです。人と会えば楽しいし、花を見れば美しいと思い、日々の食事もみなおいしく、そして汗を流せる幸せを思う。その一瞬一瞬に感謝しているので、いつもつい顔が緩んでしまうんです」
パラリンピック種目の中で、過酷さが群を抜くトライアスロン。水泳、自転車、ランニングを同時にこなさなければならない。2016 年9月のリオ大会で初めて正式種目となった。
谷は17年9月、初めて出場した世界選手権(オランダ・ロッテルダム)でいきなり優勝(PTS4=立位、中度の運動機能障害)。しかもパラトライアスロンの世界選手権では日本選手として初の金メダルだった。慣れない競技で先頭を走るのは心臓が裂けるほど苦しかったはずだが、ゴールした瞬間は肩を激しく揺らしながらも、抜けるような笑顔を浮かべていた。谷の笑みは、表情と言うより、もはや「人格」と言っていい。
しかし、簡単にあの菩薩(ぼさつ)のような笑みを会得したわけではない。幾度となく襲われた絶望の底から這(は)い上がってきたからこそのものだ。
骨肉腫との闘いを経て陸上競技へ
早稲田大学商学部2年の夏だった。念願のチアリーダー部に入り青春を謳歌(おうか)していた真っ最中、右足首に鋭い痛みを感じた。11月にチアリーディングのステージを控えていたこともあり、マッサージや電気治療でごまかしていたが、歩くのもつらくなり近所の整形外科へ。レントゲンを見た医師が驚きの声を上げた。
「なんだ、これは!骨が溶けている」
医師の勧めで東京・築地のがんセンターに行くと、骨のがんである骨肉種と診断された。即刻入院、抗がん剤治療が始まった。小学校で水泳、中学・高校で陸上、大学でチアと活力に満ちた日々を送っていた谷にとって、吐き気と倦怠(けんたい)感に襲われ全身が湿った真綿で締め付けられるような息苦しさは、耐え難いものだった。1カ月後には髪の毛が抜け、眉毛、まつ毛が抜け落ちた。19歳の娘が向き合うにはあまりにも残酷な現実だった。
だがさらに厳しい現実が追い打ちをかける。担当医から、右膝から下を切断しなくてはならないと告げられたのだ。谷は、すがるような思いで医師に請う。
「切断は最後の手段にできないですか」
医師は首を振り、断言した。「今切断しないと、あと1年半しか生きられません」
谷は必死に追いすがった。
「もし、先生のお子さんが私と同じ症状だとしても、足を切断することを選びますか」
「もちろん!命の方が大事」と強い答えが返ってきた。
「この言葉で、私の覚悟が決まりました。手術室に入るとき、家族に『バイバイ』と言うと、『なぜこの場面でそんなに笑えるの』と母は泣いていましたが、私はそれまで散々苦しみ、涙もいっぱい流してきたので、片足を失う覚悟はできていたんです」
それでも、治療期間中は「なぜ自分だけがこんな体になってしまったのか」と呻吟(しんぎん)し、周りの人たちから取り残された気がした。
「自分の弱さとかなり闘っていましたね。でも、マイナス思考のループを断ち切るために、何か夢中になるものを見つけたいと考えて東京・北区にある障害者スポーツセンターに通い出し、指導者の勧めで陸上を始めました」
大震災被災後のロンドン大会で自己記録更新
2004年大学卒業後に入社したサントリーで仕事をこなしながら、自ら手配したグラウンドで黙々と汗を流した。子どもの頃からの「負けじ魂」を発揮、義足となって2年でアテネパラリンピックの走り幅飛び日本代表に選ばれるまでの実力をつけた。続く北京大会にも出場、12年のロンドンを目指し猛練習していた11年3月、故郷の気仙沼市が津波に襲われ、自宅も飲み込まれた。
故郷の消失は、アイデンティティーの消失にも似ていた。しかしただ呆然(ぼうぜん)としているわけにはいかない。会社の支援もあり、故郷の復興支援活動に懸命に取り組んでいると、パラリンピックでの活躍を期待する声があちこちから届く。
「ロンドンで頑張る姿を見せることが故郷復興の一助になるのであれば、パラリンピックに全力で挑もうと、また練習に精を出しました」
ロンドン大会で自己記録更新、13年の世界選手権(フランス・リヨン)では銅メダルを獲得した。



