葬送の意味を考えさせられる一作
映画『百日告別』の主人公は2人だ。同じ交通事故で、身重の妻を失ったユーウェイと、結婚直前の恋人を失ったシンミン。2人は共に、偶然の末に生き残る側となった。2人の平行する物語は、交差するようでいて交差しない、それでいて、つながる一本の糸は最後まで切れることはない。
その死が理不尽で自己責任ではなく、そして突然であればあるほど、別れの受容までのプロセスは苦難に満ちたものになる。乗り越えられない人も少なくない。映画の2人も最初は心を閉ざし、何かにつけて周囲とぶつかる。半ば勢いで異性と寝てしまうなど、自分を否定するような愚行も行う。愛する人との「告別(別れ)」を、100日という時間をかけてどうやって受け入れるのかを、徹底的に内面まで踏み込んで検証する作品だ。
宗教的な要素が強く出すぎないようにきちんと配慮されている。しかし、映画の中で登場する主人公以外の人々の言動は、「台湾人はこんな風に考えるんだ」と新鮮な驚きを与えてくれる。
例えば、シンミンがフィアンセの初七日を迎えた日、妹が玄関に塩をまくことを勧めるシーンがあった。「彼が戻ってきたなら、足跡が残っているはず」。冗談ではなく、かなり本気で勧めているところが面白い。一方、亡くなったフィアンセの体に触ろうとしたシンミンを「触ったらこの子の魂が迷うじゃないか」と、フィアンセの母が叱りつける場面もあった。
2人の転機になるのは、ある「儀式」だった。ユーウェイはピアノ教師だった妻の教え子たちに授業料を返して歩いた。シンミンはフィアンセと一緒に行く予定だった沖縄に1人で足を運んだ。一見なんの意味もないような行為をあえて必要とする気持ちが痛いほど伝わってくる。理不尽な死に対して、決して分かりやすい救いは得られるものではないが、何か一つでも主体的に動き出すことによって、未来に向けて、新しい一歩を踏み出せるきっかけになる。何かにぶち当たったときは、少し時間を巻き戻してみることも大切なのである。
人が死ぬと葬儀が行われる。シンミンは初七日にたまたま一緒になったバスの中でユーウェイにこう答える。
「法要は死者の供養というけど、毎回死んだことを私たちに思い出せて、手放させるための期限みたい」
これは本当にその通りで、葬儀の内容が事細かに長期間にわたって決められているのは、主に儒教による葬礼の儀に仏教などが融合したものとして台湾でも日本でも共通しているが、それはあくまでも死者のためではなく、むしろ生者のためであると理解するのが正しいのだろう。
人は、ついさっきまで目の前で生きていた人が「無」になったという現実を受け入れるには、心を整え、段階を踏んで生者が死者となっていくことを見届ける必要がある。その間には、絶えず生者は去ったものとして受け入れることが求められ、人の心には死者を送り出す準備ができていくのである。
煩雑にさえ思える葬送の一連の手順は、死者も生者も安らかになるためのものだと教えてくれることが、この映画の最大の価値である。
シンミンを演じて金馬奨最優秀主演女優賞を獲得したカリーナ・ラム(林嘉欣)は、あまりにもこの役にはまり過ぎる女優であり、彼女を起用したトム・リン(林書宇)監督の眼力に敬服する。人気バンド・メイデイ(五月天)の一員であるも石錦航も、十二分過ぎるほどの演技を見せた。『九月に降る風』『星空』という佳作2本を撮ったトム・リン監督らしい、無駄なシーンがほとんどない、シンプルで味わい深い作品となっている。特に、感情変化の描き方が細やかでいい。病で妻を失った監督自身の体験に根ざす脚本ということもあるだろう。派手ではない演出が、かえってリアリティを伝えていると私は感じた。
【百日告別】
2017年2月25日より、ユーロスペース他にて公開
公式ページ:http://www.kokubetsu.com/


