サラリーマンから料理の世界に戻って成功する

私たちが満腹になったのを見てから、平岡さんは「実は前はサラリーマンをやってまいした」と切り出した。

平岡さんは、京都の祇園にあるお座敷で、チーズフォンデュや北京のしゃぶしゃぶなど、海外の料理を出す老舗料亭の息子に生まれた。料亭を切り盛りしていた両親は早くに亡くなり、祖母が引き継いだが、平岡さんの代で店を閉めた。

料理とは関係のない世界で生きていくことを決めた平岡さん。入った会社は書道の道具を扱う文具店だった。仕事柄、中国の北京や香港への出張が多かったが、皮肉にも、香港の屋台で大きな中華鍋を振る料理人の姿に惹(ひ)かれた。

子供のころから見続けた親の背中と重なるものがあったのだろうか。その料理人の所に通い詰めて料理を教わり、料理人の道への第一歩が開かれた。

平岡さんは30歳で会社を辞める決断をし、香港料理店「Tears」を京都に開いた。舌が本物の味を覚えていたのだろう。文具店とは全く異なる飲食の世界への転身だったが、店は大成功を収めた。

ところが、10年の月日が流れ、少しずつ心境の変化が起き始めた。

「老闆(店主さん)、台湾料理を作れますか」

京都には台湾人留学生が多数いる。中華料理を食べられることを聞きつけた学生たちが、次々とメニューにない台湾料理を頼むようになった。人懐っこい台湾人の性格にすっかりペースを掴まれ、要望に応じているうちに、いつの間にか店のメニューには台湾料理が増えていった。

店内の様子(撮影:今井 さき)

転機は突然やってくる。2010年、自作の料理をSNSに掲載したところ、台南に住む台湾人と繋がった。20代の台南の女性の黃穗婷さんから、面識のない平岡さんに「台湾の店をやりなさい」と強烈にアプローチをかけ、台南の飲食店が掲載された料理本「吃進大台南」を台湾から送ってきた。

「一軒ずつに付箋が付いているんです」

彼女がおいしいと思った店に印が付いていた。平岡さんにたくさんの台南のおいしい小吃を紹介したいと考えたのだ。

日本語が堪能で、京都が大好きで、留学を夢見ていたというこの女性。いろいろな事情で留学できなかった自分の夢を、平岡さんに託したのかもしれない。料理本以外に、中国語のテキストもあった。日本語のテキストをお礼に送り返した平岡さん。穗穗さん、尚樹さんと呼び合い、スカイプを使っての語学交流が始まった。ついでに台湾語もみっちり仕込まれた。おかげで、いまでは、「ランケーライ(お客さんがきました)」「ライテーゼェ(中にどうぞお座りください)」と台湾語で接客をしている。

台湾人は思い付いたら、行動に移すまでがとにかく早い。物事を推し進めるパワーが強過ぎて、ときには日本人にとってはお仕着せがましく思えて、困惑してしまうこともある。ただ、この台湾人のスピード感がある行動が功を奏し、思いもよらない共鳴効果をもたらすことがあるから面白い。