台湾の地方都市にも広がる神社の造営

台湾神社が鎮座すると、主だった地域で一斉に神社の造営が始まった。台湾統治上の必要性は迅速な「日本化」の浸透であった。日本化とは天皇を中心とした天皇主権国家であり、その中に占める神道の神々を祭る神社は絶対的な権力の象徴でもあった。

台湾の行政地区の中心となった地方都市には県社規模の神社が造営され、台湾神社の祭神を祭り、それぞれ県社として列格されていった。県社への列格年代順で見ると、開山神社(1897年)、台中神社(1913年)、嘉義神社(17年)、新竹神社(20年)、花蓮港神社(21年)、台東神社(24年)、阿緱神社(26年)、宜蘭神社(27年)、高雄神社(32年)、基隆神社(36年)、そして、澎湖神社(38年)となる。

台湾が日本となった初期では、神社造営と各種国家記念事業である御大典(大正天皇即位の礼、15年)、皇太子行啓(23年)および御大典(昭和天皇即位の礼、28年)は大いに関係があり、これらの記念事業をその神社造営の推進力とした。その後、31年9月に満州事変が発生。32年3月には満州国が樹立され、33年3月には国際連盟から脱退したことにより、日本を取巻く情勢が急変した。日本は国際情勢の緊迫化を伴う国家非常事態体制下にあった。この頃は台湾における神社の重要性が大きく変化する節目でもあった。国民に対して国威発揚、国民精神の高揚などが叫ばれ始め、国家神道に基づき、国民精神の育成が急務となり、神職会(神社本庁の前身)から神宮(伊勢神宮)大麻が主だった神社経由で本格的に頒布されていった。この過程で、地域の土地守護神として34年末、北港神社(台南州北港郡)が社格をもつ「神社」として造営され、台湾での神社造営ラッシュの先陣を切った。