マラリアの後に流行したペストの撲滅に尽力
1892年に内務省衛生局長に就任していた後藤新平の知遇を得た堀内は、96年に再び台湾に渡った。台北病院の医員に着任し、以後台湾総督府の医療行政に関わることになった。台湾行きを勧めた後藤は、98年3月に民政局長として渡台、風土病撲滅を推進することになる。
堀内の渡台と時を同じくして、ペストが台南の安平港から広がり大流行し始めていた。堀内は直ちにペスト菌検出の仕事に取り組む。当時、台湾に派遣された医師の中で、顕微鏡操作ができ細菌学を勉強した医者は堀内しかおらず、周囲の期待を背負っていた。
しかし、台湾人は堀内ら医師団の検疫を拒み、協力しないばかりか抵抗をした。当時の台湾人は医者が消毒をしたり、火葬をしたり、解剖したりする事を嫌った。それらの行為は死者を冒涜(ぼうとく)する事と信じていたからである。そのような事態が続くうちに患者が急増した。96年から20年間にペスト患者は3万人を超え、死者が2万5000人に迫る勢いとなった。患者の死亡率は8割を超えるという信じられない数字になった。そこで堀内は日本から招へいされた東京帝大教授の緒方正規や助教授の山極勝三郎とともに、感染過程の研究に没頭した。
一方、総督府はペスト菌を媒介するネズミ退治が急務であると考え、1908年からネズミ駆除に取んだ。17年頃になって堀内ら医師団の研究成果とネズミ駆除が相乗効果をもたらしペストの撲滅に成功。住民たちは、うれしさのあまり「ペスト絶滅祝賀会」を開いたという。
余談になるが、ペスト以外に台湾で猛威を振るったのがマラリアだ。堀内が医学校の校長になった15年の台湾の人口は330万人ほどで、マラリアによる死亡者は約1万3000人になっている。ペスト同様に台湾からマラリアを駆逐したのも木下嘉七郎、羽鳥重郎、小泉舟、森下薫らの日本人医師だ。
台湾で最初にマラリア蚊を見つけた木下、新種の「台湾マラリア蚊」を発見した羽鳥、マラリア蚊の種類と生態研究に業績を残した小泉、マラリア蚊の分布と脾臓(ひぞう)腫との関係を解明した森下。これら研究者の業績が評価され、29年4月には、台湾総督府中央研究所が「マラリア治療実験所」を設立した。そこで小田定文、菅原初男、並河汪、石岡兵ら研究者が努力したため、マラリアをはじめとする熱帯伝染病が撲滅され、台湾は清潔で住みやすい島へと変わっていった。