人生の大半を台湾の医学発展に捧げる

台湾における風土病研究に多大な功績を残す一方で、堀内は医学校校長として台湾人学生を愛し、誠意を持って教育を行った。

堀内は、台湾人医学生である杜聡明の博士論文を評価し、京都帝大に推薦している。その結果、杜は台湾で最初の医学博士となった。杜は、戦後に国立台湾大学医学院教授などを歴任した後、私立高雄医学大学を設立。へき地や先住民族医療に取り組み、、戦後台湾医学の発展に大きく寄与している。

マラリア撲滅のために尽力した台北帝大医学部衛生学教授の森下はのちに大阪大学医学部名誉教授になる。「台湾の医学史の中で終始主役を続けていた堀内先生を取り上げなければ、台湾医学史の記述は成り立たない」と述べている。また、台湾文化協会の設立大会に出席するなど、台湾青年の民族運動にも理解を示した。教え子の韓石泉医師は「一人の勇敢な開拓者であり、偉大なる教育者であり、真摯(しんし)な学者である」と堀内を称賛している。

台湾施政40周年記念博覧会が開催された36年に定年退職を迎えた堀内には教え子から胸像が送られ、医学校の校門脇に設置された。さらに退職に伴い、20年余り住み続けた2000坪(1坪3.3平方メートル)もある佐久間町(現在の牯嶺街、福州街付近)の総督府官舎を退去し、川端町(現在の汀州路二段、廈門街付近)の小さな借家に居を移した。医学校を退職した後も赤十字台湾支部病院の医院長は続け、仕事に情熱を注ぐばかりで豊かとはいえない生活をしていた。それを見かねた医学校の卒業生が募金を行い、41年に昭和町(現在の青田街、永康街の付近)に住宅を購入して贈呈した。しかし、住宅は敗戦とともに進駐してきた国民党軍によって接収されている。

堀内は戦後も帰国せず台湾大学医学院と名前を変えた学校で講義を続けた。ほとんど台湾から出ることはなく、51年の人生を台湾人の医師養成に捧げた。帰国の際には教え子の台湾人開業医が餞別(せんべつ)を募ったところ、現在であれば3億円に近い30万円にもなったという。堀内は55年に82歳で亡くなったが、その際、高雄医学院では教え子たちが集い尊敬と感謝の念を持って追悼会を催している。堀内はまさに「台湾医学界の父」と呼ぶにふさわしい日本人だった。

参考文献

  • 松井 嘉和『台湾と日本人』(錦正社)
  • 小田 滋『堀内・小田家三代百年の台湾』(近代文芸社)
  • 黄文雄『世界から賞賛される日本人』(徳間書店)
  • 黄文雄『台湾は日本人が作った』(徳間書店)

バナー写真=台湾大学医学人文博物館(Richie Chan / PIXTA)