八方美人になりたいという「落とし穴」

とここまで記したところで付記しておくと、筆者自身、日本の対外PRに意を砕くことを自らに課してきた。英BBC放送などに請われるまま、彼らのニュース番組に(最近はもっぱらスカイプ経由で)ライブ出演し、日本の立場を熱弁してきたその頻度においてなら、人後に落ちない。報酬はおろか、誰の承認も期待できない。それでいて、脂汗や冷や汗だけはしこたまかく営為を長年続けてきた。

ゆえに今回記すのは、批評家然として言っているのではない。主張は実務家の端くれとしてなすもので、しばしば懺悔に近い。そこをあらかじめお断りし、指摘したいのは三点だ。

一は、既に指摘を終えた。発想がともすると日本語空間で完結し、必要な情報を英語にする運動神経に欠けることだ。二は、誰からも好かれたいとする性向が日本にあるということ。三は、歴史を引き合いに批判された場合、及び腰になることだ。

人も国も、疎まれるより好まれた方がいい。世界中で8割方に支持され、良い国だと思われていることは、日本にとって貴重な外交資産だ(前回記事参照)。

けれども資産とは、所詮は手段。どう運用し、投資するか。外交の場合、資産を用いてどんな国益をいかに満たすか。それこそが問題となるはずなのに、人気取り自体が目的化する本末転倒に陥りやすい。皆に満遍なく好かれたがるそんな国に、外交という利害の選択を伴うわざは果たして可能なのか。

甲国も乙国も親日国である場合、にもかかわらず日本の国益、国柄からすると甲乙間の優先をはっきりさせねばならない状況は、ままある。そんな時、どちらにも良い顔をしたがるところがわれわれにはある。挙句、きちんとモノを言わなくてはならない場合、論点をぼかす、言を左右にするなど、コミュニケーターとしてあるまじき対応をしてしまうことにもなりかねない。

日本の信じる「価値」の重要性

おのれの信じる価値体系についてそもそも言葉少なだった戦後の長い期間は、それでも大過はなかった。いまの日本は違う。

民主主義は、どの国のそれも完成品というより仕掛品(ワーク・イン・プログレス)であって、日本のものも例に漏れない。だとしても、これを育てた年月は短くない。明治天皇が「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」と言われた明治元年から数えるならはるかに長い間、途中大いなる蹉跌はあったにせよ、制度に堅牢をもたらして今日に至る。思想犯など一人として存在しないのが当たり前だという現代日本の達成は、中国などと尖鋭な対照をなすところだ。

安倍晋三首相の外交は、自由、民主主義、人権、法の支配といった価値にもとづく制度の体系に普遍妥当性を主張し、旗幟を鮮明にした。これは筆者のみるところ、日本がなした新時代の「アイデンティティ・ポリティクス」だ。日本は、身の丈にふさわしい自我意識を、ようやく外交に託せるまでに至った。

ここからは、例えば甲国が押しも押されもせぬ民主主義国、乙国はそうでない場合、両者間に文字通り甲乙つける尺度がはっきりしてくるはずで、そうでなくてはおかしい。いずれも親日国、双方ともに好かれているといって甲乙どちらにもいい顔をすると、自分を偽り、喪失する所業となる。

ここで、留保が二つある。実際の外交で、甲を取って乙を捨てるごときあからさまな挙に出るのは愚策であって、交際態度には工夫があってしかるべきだ。それでも、内なる価値尺度まで融通無碍にし、物事の軽重を見誤るべきではない。

第二に民主主義とは永遠の仕掛品であるのみならず、その閲歴に皮肉な過去があることを弁えておきたい。民主主義は植民地帝国主義と幸福に同居した。人種主義と共存した時期もついこの間まで続いた。実体験としてそれを記憶する人々は、世界にまだ少なからず存在する。そんな相手に民主主義を説きたいなら、当然にも委曲を尽くす必要がある。

「世界からの評価」と、それに伴う責任

安倍首相は二度目の在任7年超の間に、自由で開かれ、法の支配が貫徹する世界秩序の旗手――いまやその数少ない一人とみなされるに至った。よい証拠は2019年9月、ベルギー・ブリュッセルの欧州連合(EU)本部を訪れ、「日EU戦略的パートナーシップ協定」について語った安倍総理の演説だ。

https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/0927eforum.html

英文は

https://japan.kantei.go.jp/98_abe/statement/201909/_00003.html

欧州側からの揺るぎない信頼を背にして初めて発することのできた言葉を、そこには読みとることができる。

安倍首相が得た信認は、なるほど安倍晋三という個人の得たものではある。けれども土台には、日本と、日本国民が勝ち得た信頼がある。「自由と民主主義のフロントランナーである」とは、日本がようやくこの手につかんだ評価だ。思えば明治の開国以来一世紀半、悲願成就である。

だとするとそこには代償が伴う。甲乙つけずに済んだところが、そうはいかなくなる。ここで口ごもり、態度を曖昧にし続けるなら、せっかく獲得したアイデンティティに再び混乱をもたらしかねない。コミュニケーションズ能力が大いに問われてくるところだ。

そうでなくても日本は、対日ネガティブキャンペーンをこととする特定の国々を近隣に持つ。ここで三番目の、最後の論点に移ろう。