「台湾政治研究者」になる

しかし、これだけではまだ台湾政治「研究者」とは言えない。読めるようになったニュースとコンテキストを学術的言葉で論述できるようにならなければならない。ここでも私は何の戦略もなかったのではあるが、必要に駆られてまさしく泥縄式に、当たりを付けて関係しそうな政治学や社会学の用語を「仕入れ」ていった。曰く「権威主義政治体制」、政治体制の「移行」、「エスニック・グループ」、「ナショナリズム」、「クライアンティリズム」などなどである。これには、同じ職場に、アメリカに留学して帰国した院生時代の友人の恒川惠市さんがラテンアメリカ研究者から比較政治学者に変身して戻ってきていたのはたいへん心強かった。自分の泥縄式勉強はどこらへんが怪しいのか、折に触れて彼と言葉を交わすことである程度はチェックできた。

時間的にはしばらく後の事になるが、現地台湾の学者との交流も行うようになった。上記のような用語を自在に用い、政権イデオロギーのレトリックを用いず、台湾の現実に取り組んだ論文が出始めたのである。ほとんどが私と同世代の米国留学帰りの少壮学者であった。ある意味で当たり前ではあるが、気がついてみれば台湾のこうした学者の同時代台湾政治・社会理解の業績を収集しその成果を咀嚼(そしゃく)・吸収すること、そして台湾で実際に彼らに会って意見交換をすることが、私の不可欠の研究活動となっていた。 

私には理論の体系への関心や系譜の追求への志向が薄い。私の台湾政治研究と政治学・社会学といったディシプリンとの関係は、前記のように「情況に入った」後に自身の理解を沈殿させるために必要な用語を「泥縄式」に仕入れてくる、理論家から見ればいいとこ取りだけの実用主義であった。そして、それらの概念によって把握したフィールドの現実から理論にフィードバックするという志向もなかった。初期訓練の面でも後の実作の面でも、私は政治学者ではなかったが、地域研究者としての「台湾政治研究者」には自己流の訓練でなることができたのだと思う。

次回から自分がどのようにして「台湾政治研究者」になっていったのかをゆっくりと振り返ってみたい。

バナー写真=筆者が購読していた『八十年代』系統の雑誌(筆者撮影)