全国にその名を知らしめたアミ族野球チーム「能高団」
花蓮体協の成立後、会長の江口は毎年春秋2回の野球争覇戦を行うなど、積極的に野球を奨励した。その結果、日本人と漢民族が積極的に試合に参加し、先住民族の野球観戦も進んだ。野球場が日本人、漢民族、先住民族の共通空間として役割を果たし始めたのである。
1922年2月、台湾体育協会の招聘(しょうへい)で大毎野球団が初めて台湾に遠征した。24年4月からは台北、花蓮港、高雄、台南、台中などの各地を転戦し、30日には花蓮港軍との対戦が行われた。大毎野球団は「能高団」との対戦を予定していなかったが、「滯在中、ぜひ一度指導的に試合をしてほしい」との申し込みを快諾し、花崗山グラウンドで親善試合を行った。
花蓮港総出という大盛況の試合には、アミ族の盛装した男女百数十人が応援に駆け付けた。試合途中に大毎選手らは「能高団」を指導しながら対戦し、結果は大毎が22対4で圧勝したが、試合中の大毎に対する先住民族の歓声は遠来の大毎軍を感激させた。
江口は「規律ある運動、整然として勇気ある動作、それを立派に蕃人がやりこなすということを、天下に周知せしめたい」と考え、1923年9月に修学旅行を兼ねた「能高団」の西部遠征を実現した。「能高団」は主に花蓮港農業補習学校の生徒によって編成され、大部分がアミ族であった。選手以外の生徒約60名も応援団として同行した。「能高団」と同行した「オール花蓮港団」は長春丸に乗船し、翌日基隆港に着岸した。「能高団」選手らは霜降の学生服にカーキ色の巻ゲートル、地下足袋といった服装で基隆駅から汽車に乗り込み、雑嚢を肩にして校旗を掲げ、午後台北駅に着いた。
こうした格好に対し新聞は「蕃人とは誰しも思えないくらいである」「文明人に劣らぬ筋骨逞しい少年団」と報道した。「能高団」の西部遠征では台北、台中、台南、高雄、屏東、新竹、基隆などの各地で日本人チームと対戦することになっていた。まず21日に、台北商業と対戦した。この年、全国中等学校野球優勝大会全島予選大会が初めて台湾で実施されていた。台北商業がこの大会で優勝し、台湾代表として甲子園に出場したばかりだった。
試合会場は円山グラウンドである。この対戦は、「珍客能高団を迎えて」と新聞報道され、野球ファン約7000人で球場はふくれあがった。初回表に「能高団」の主将コモドが中右間のフェンスを越えるホームランで2点をリードするが、結局「能高団」は9対5で台北商業に敗れた。
にもかかわらず、場内では大きな声援を受けた。江口は「勝敗は眼中になし」としていたが、遠征は5勝5敗で思ったより成績が良く、さらに対戦するたびに成績が向上した。
台湾総督府は台湾の理蕃事業の成果を、いかにして日本内地に宣伝するかという課題を持っていたが、蕃人といえば首狩りを連想する日本内地に対し、理蕃事業の成果を広く宣伝する機会がなかった。こうした状況の中、江口によって編成された「能高団」に対し、台湾総督府から1925年7月3日、「能高団」の内地観光が正式に決定された。期間は3週間である。内地遠征の15名のメンバーが決められた。日本内地遠征の成績は、3勝4敗1引分であった。「能高団」の内地観光の成果を、江口はこう述べている。
「野球技においてのみならず、講演に音楽に、内地の人々をしてこれでも真の蕃人かと疑はしめる程、最も有効に蕃人自身を以て、台湾蕃族を宣伝し、併せて野球技を思う存分に練磨して来た。アミ族蕃人、否、台湾全蕃族のため気を吐き、その宣伝に、その征戦に一大成功を収めたるアミ族能高団は天下に名を馳せた。選手らは至る所において徹頭徹尾謙遜であった。そして常に勇敢であった。」