「能高団」から「嘉義農林」に引き継がれたバトン

江口によるアミ族野球チーム「能高団」の活躍は、その後の台湾野球に大きな影響を及ぼすことになる。その頃、嘉義農林野球部を指導していた近藤兵太郎は、嘉義公園グラウンドで行われた平安中との交流試合で、日本人に混じって活躍するアミ族の選手を見てつぶやいたと言われる。

「見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。我々には大きな可能性がある」

江口が育てた「能高団」の精神は、やがて嘉義農林野球部の中で花開くことになるのである。

「能高団」の生みの親であり、育ての親でもあった江口良三郎は、花蓮港の完成を見ることなく帰国した翌年、1926年12月25日に急逝した。

1931年、江口の没後5周年忌に八田技師が烏山頭ダムで使用した大型土木機械が花蓮港に持ち込まれ、大規模な工事が開始された。39年には大型船が横付けできる待望の港が竣工した。花蓮の人々は、江口の花蓮に対する貢献を忘れないために記念碑を建て、「江口庁長頌徳」と刻んだ。現在は「江口良三郎記念公園」を創設し、港が見えるようにと記念碑を移設した。

江口は、まさに花蓮を愛した日本人であり、「花蓮築港の父」と呼ばれるに相応しい日本人であった。

江口良三郎の記念碑(筆者撮影)
江口良三郎の記念碑(筆者撮影)

バナー写真=TAKUCHIH / PIXTA